大阪夏之陣
菊池寛

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(例)丈《だけ》

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(例)小早川|隆景《たかかげ》

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 (例)不[#レ]及[#二]言語[#一]

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       夏之陣起因

 今年の四月初旬、僕は大阪に二三日いたが、最近昔の通りに出来たと云う大阪城の天守閣に上って見た。
 天守閣は、外部から見ると五層であるが、内部は七重か八重になっている。五階までエレヴェーターで行き、後は階段を昇るのであるが、自分は心臓が弱いため、高所にあると云う感じ丈《だけ》で胸苦しくなり、最高層の窓からわずかに、足下に煤烟《ばいえん》の下に横たわる大阪市を瞥見《べっけん》したに過ぎぬが、その視野の宏大なるは、さすがに太閣の築きたるに耻じないと思った。
 大阪城の天守五重説は、徳川時代の天守が五重であったから起った説で、小早川|隆景《たかかげ》と吉川《きっかわ》元長が、秀吉の案内で天守に上った時の感想には、「大天守は八重にて候、|不[#レ]及[#二]言語[#一]《げんごにおよばず》候」とある。だが、実見者の大阪落城絵図では、外見五重になっているから、外見五重で内部は八重になっていたのであろう。
 城は、摂津の国|東成《ひがしなり》郡に属し、東に大和、西に摂津、南に和泉、北に山城を控えて、畿甸《きでん》の中央にあり、大和川の長流東より来り、淀の大江|亦《また》北より来って相合して、天満《てんま》川の会流となりて、城北を廻りて、西南は瀬戸内海に臨んで、まことに天下の形勝である。
 石山本願寺時代、信長の雄略を以てしても本願寺門徒を攻め倒すことが出来ず、十一箇年の星霜を費して、やっと媾和している。
 しかし、秀吉がその愛児秀頼に、この難攻不落の名城を遺《のこ》したことは、却《かえ》って亡滅の因を遺したようなものである。有史以前の生物であるマンモスとかライノソーラスとかいろいろ難しい名の巨獣類は、みんな武器たる爪や甲羅のために、亡《ほろ》んでいる。それは爪や甲羅が大きくなりすぎて、運動が敏活を欠くためである。
 秀頼も、秀頼を取り巻く連中も、天下の権勢が徳川に帰した後も、大阪城に拠れば、何《ど》うにかなるだろうと思ったろうし、家康も本多正信も秀頼は恐くはないが、大阪城にいる以上、どうにか始末をつけねばと思ったろうし、結局大阪城は秀頼亡滅の因を成したと云ってよかろう。
 家康にしたところが、絶対に秀頼を亡そうと思っていたかどうかは疑問である。絶対に亡そうと思っていたら関ヶ原以後、十四年、自分が七十三になるまで時期を待ってはいなかっただろうと思う。それまで、豊臣恩顧の大名の死ぬのを待っていたなど云うが、しかし家康だって神様じゃないし、自分が七十三迄生き延びる事に確信はなかっただろうと思う。
 もし、豊家に人が在って、自発的に和州郡山へでも移り、ひたすら豊家の社稷《しゃしょく》を保つことに腐心したら、今でも豊臣伯爵など云うものが残っていて、少し話が分った人だったら、大阪市の市長位には担ぎ上げられたかも知れない。
 しかし、秀頼の周囲は、仲々強気で、秀頼が成長したら、政権が秀頼に帰って来るように夢想していたのであるから、結局亡びる外仕方がなかったのだろう。
 大阪冬の陣の原因である鐘銘問題など、甚だしく無理難題である。家康が、余命|幾何《いくばく》もなきを知り、自分の生前に処置しようと考え始めたことがハッキリ分る。
 秀吉が、生前大阪城を攻め亡すには、どうしたらよいかと戯れに侍臣に語ったところが、誰も答うる者がなかったので、自分で「一旦扱いをして、濠《ほり》を潰《つぶ》せば落ちる」と云ったと云う。多分後人の作為説であろうが、家康の大阪城に対する対策も同じであって、大阪冬の陣に、和議を提議したのは徳川の方からである。一度、戦争をして、和議の条件として濠を潰させ、その後でいよいよ滅してやろうと云うプラン通りに、大阪方が乗って、行動するのであるから、一たまりもなく亡びるのは当然である。せめて、冬の陣のままで四月《よつき》か半年も頑張ったならば、当時は戦国の余燼《よじん》がやっと収まったばかりであるから、関ヶ原の浪人も多く、天下にどんな異変が生じたか分らないと思う。
 大阪冬の陣の媾和には、初め家康から、一、浪人赦免、二、秀頼|転封《てんぽう》の二条件を提議し、大阪方からは、一、淀君質として東下、二、諸浪人に俸禄を給するために、増封の二条件を回答した。媾和進行中に塙《ばん》団右衛門が蜂須賀隊を夜襲するなどの事があって、大いに気勢を挙げ、大阪方可なり強気であったが、家康天守閣、千畳敷などを砲撃して、秀頼母子を威嚇《いかく》し、結局の媾和条件は、次ぎの通りであった。
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一、城中新古将士の罪を問わざるべし。
二、本丸を除き二、三の丸の濠を埋《うず》むべし。
三、淀君質となるを得ざるを以て、有楽|治長《はるなが》質子《しちご》を出すべし。
[#ここで字下げ終わり]
 この媾和条約違反から、夏の陣が起るのであるが、惣堀だけを潰す約束であったのに、二の丸三の丸の堀まで潰したので、大阪方が憤慨したと云う説、いや初めから二の丸三の丸を潰すことを大阪方も認めていたと云う説もあって、決しがたい。濠の問題以外に、家康は大阪方の浪人を扶持するに対して「|悉被[#二]相払[#一]《ことごとくあいはらわれ》」と要求したばかりか、古参の衆まで逐《お》わしめんとしたと云う。
 然し、夏の陣の開戦の直接原因は、秀頼の転封問題である。冬の陣の媾和の時に、転封問題はあったのであるが、それは増封の伴った転封であったのであろう。大阪方で転封と云うことがなければ、大事の城の濠を潰させるわけはない。内約的に栄転的転封を約したのであろう。
 三月中旬に、大阪より青木一重、淀君の妹の常高院などが駿府に下り、家康に増封を請願しているのでも分る。大阪方では、集った諸浪人の扶持のために、ぜひとも増封が欲しかったのである。
 つまり、大阪陣と云うのは、ある点からは、関ヶ原で失業した諸浪人の就職戦争であるから、媾和になった場合には、浪人の扶持問題が起るのは、当然なわけである。
 此の増封を拒絶されて、四月五日に秀頼は、開戦を決している。
 四月二十四日に、家康が大阪に遣した最後通牒は、次ぎの通りだ。
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一、秀頼の封邑《ほうゆう》中、去年の兵乱に摂津の百姓離散せるは疑うべからざるも、河内は然らず。(之は変だが、つまり秀頼よりの増封の要求の理由を反駁《はんばく》したのである)
二、媾和以後浪士は、速かに解放すべきに、却て多数の浪士を招集せしは何故ぞや。
三、城中戦備を整うるを以て、人心の動揺甚し、暫く大和郡山に移封あるべし。
[#ここで字下げ終わり]
 増封乃至は増封的転封を拒絶し、転封だけさせようと云うのであるから、大阪方が怒ってしまったのである。そうすると家康は「止むを得ざる仕合せ」と云って兵を出している。
 家康の肚では、濠を潰すための媾和であったから、濠が無くなれば、開戦はいつだって、いいのである。濠を潰させる好餌として、有力な人の口から、増封を匂わせたに違いないのである。でなければ、大阪方が何の代償もなしに、大事な濠を潰すわけはないのである。
「大阪の城堀埋り、本丸|許《ばか》りにて浅間と成り、見苦敷《みぐるしき》体にて御座候との沙汰にて御座候」
 と、正月二十日附で、金地院《こんちいん》崇伝は細川忠興に消息している。つまり、現在ある大阪城と同じになったわけである。
 家康は、冬の陣以後すぐ戦争準備にかかり、冬の陣の経験から、大砲を作らしている。『国友鍛冶記録』に「権現様|為[#二]御上意[#一]《ごじょういにより》、元和元年卯之正月、急駿府被為召《きゅうにすんぷにめされられ》、同十一日に百五十目玉之|御筒《おんつつ》十挺、百二十匁玉之御筒十挺、百目玉の御筒三挺、昼夜急ぎ|張立指上可[#レ]申之旨《はりたてさしあげもうすべきのむね》、上意……夏の御陣へ早速指上、御用に相立申候」とある。
 また家康は駿府には帰らず、途中でウロウロして、二月七日に遠州中泉で次ぎのような非常時会議をやっている。
「二月七日辰刻、将軍家|渡[#二]御中泉[#一]《なかいずみにとぎよ》|先献[#二]御膳[#一]《まずおぜんをけんじ》|暫有[#下]於[#二]奥之間[#一]大御所御対面[#上]《しばらくおくのまにおいておおごしょもごたいめんあり》本多佐渡守|同上野介召[#二]御前[#一]《おなじくこうずけのすけをごぜんにめされ》|御密談移[#レ]刻《ごみつだんにときをうつす》」
 四月初旬には、多くの諸侯に、出征準備の内命を発している。
 四月四日には、家康、子義直の婚儀に列する為と云う口実で駿府を出発、十八日、二条城に入っている。

       塙直之戦死

 大阪方でも、戦備に忙しく、新規浪人を募集し、秀頼自ら巡視した。「茜《あかね》の吹貫《ふきぬき》二十本、金の切先の旗十本、千本|鑓《やり》、瓢箪の御馬印、太閤様御旗本の行列の如く……」と、『大阪御陣覚書』に出ている。
 だが、大阪方としては、城濠を失っているのであるから、城を捨てて東軍を迎え撃ち、あわよくば西将軍の首級を狙う外、勝算はないわけである。
 西軍の作戦として、東は大和口の東軍と河内口の東軍とが河内の砂《すな》に相会する所を迎え撃ち、南は熊野の土冦と相結んで、和歌山の浅野を挾撃し、又別に古田織部正の家老木村|宗喜《むねよし》に嘱《しょく》し、家康秀忠の出馬した後京都に火を放とうと云うにあった。
 先ず大野治長の兵二千、四月二十六日藤堂高虎の砂に来《きた》るを待ち要撃せんとしたが、高虎到らざるため、暗《やみ》峠を越えて郡山に火を放ち、筒井定昌を走らせ、法隆寺村、竜田《たつた》村に火を放ち、国府越より河内に引き去った。これが夏の陣の第一出動である。
 四月二十八日大野治房同じく道犬等、浅野|長晟《ながあきら》の兵を迎え撃たんとして、住吉、堺を焼き、兵火を利用して南下し、先鋒の塙《ばん》団右衛門|直之《なおゆき》は、樫井《かしい》に於て、浅野の先鋒亀田大隅と戦って敗死した。
 団右衛門も名代《なだい》の豪傑であるが、大隅も幽霊から力を授ったと云う大豪の士で、その後江戸城普請の時、大隅受持の石垣がいく度も崩れるので、秀忠から文句を云われたとき「自分が鵄《とび》の尾の槍を以て陣したときは、一度も崩れたことがないが、石垣は無心のもの故是非に及ばない」と豪語した男である。
 塙の首級は、暑気の折から損ずるだろうと云うので、家康に抜露しなかった。所がその夜、井伊|掃部頭《かもんのかみ》の陣中にいた女が、痞《つかえ》おこり譫言《うわごと》を口走る。「我も一手の大将なり。然るにわが首の何とて、実検に合わざるぞ。かくては、此度の勝利思いも依らず。我|崇《たたり》をなし、禍いを成さん」と。家康之を聞き「団右衛門は健気《けなげ》なるものなり、首は見苦しくとも実検せん」とて、法通り実検した。すると、女の痞は忽ち怠った。家康笑って、団右衛門ゆかりの者なるべしとて、調べると果して、団右衛門が不びんをかけた古千屋と云うものであった。
 これに依って、戦国女性の気魄《きはく》も分るが陣中に女を伴っていたことも分る。

       片山道明寺附近の戦

 道明寺は河内志紀郡にあって、大阪城の東南|凡《およ》そ五里、奈良より堺に通ずる街道と、紀州より山城に通ずる街道との交叉の要地である。
 四月|晦日《みそか》、大野治房等は樫井の敗戦から還り、大阪で軍議をした。後藤基次先ず国分の狭隘を扼し大和路より来る東軍を要撃することを提議した。前隊は基次、薄田兼相《す
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