。家康が、余命|幾何《いくばく》もなきを知り、自分の生前に処置しようと考え始めたことがハッキリ分る。
秀吉が、生前大阪城を攻め亡すには、どうしたらよいかと戯れに侍臣に語ったところが、誰も答うる者がなかったので、自分で「一旦扱いをして、濠《ほり》を潰《つぶ》せば落ちる」と云ったと云う。多分後人の作為説であろうが、家康の大阪城に対する対策も同じであって、大阪冬の陣に、和議を提議したのは徳川の方からである。一度、戦争をして、和議の条件として濠を潰させ、その後でいよいよ滅してやろうと云うプラン通りに、大阪方が乗って、行動するのであるから、一たまりもなく亡びるのは当然である。せめて、冬の陣のままで四月《よつき》か半年も頑張ったならば、当時は戦国の余燼《よじん》がやっと収まったばかりであるから、関ヶ原の浪人も多く、天下にどんな異変が生じたか分らないと思う。
大阪冬の陣の媾和には、初め家康から、一、浪人赦免、二、秀頼|転封《てんぽう》の二条件を提議し、大阪方からは、一、淀君質として東下、二、諸浪人に俸禄を給するために、増封の二条件を回答した。媾和進行中に塙《ばん》団右衛門が蜂須賀隊を夜襲するなど
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