川中島合戦
菊池寛
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甚《はなは》だ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)琵琶歌|等《など》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから4字下げ]
[#…]:返り点
(例)捲[#レ]簾
−−
川中島に於ける上杉謙信、武田信玄の一騎討は、誰もよく知って居るところであるが、其合戦の模様については、知る人は甚《はなは》だ少い。琵琶歌|等《など》でも「天文二十三年秋の半ばの頃とかや」と歌ってあるが、之は間違いである。
甲越二将が、手切れとなったのは、天文二十二年で、爾来二十六年間の交戦状態に於て、川中島に於ける交戦は数回あったが、其の主《おも》なるものは、弘治元年七月十九日|犀川《さいがわ》河畔の戦闘と永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。他は云うに足りない。此の九月十日の合戦こそ甲越戦記のクライマックスで、謙信が小豆《あずき》長光の銘刀をふりかぶって、信玄にきりつくること九回にわたったと言われている。
武田信玄も、上杉謙信も、その軍隊の編制に於て、統率に於て、団体戦法に於て、用兵に於て、戦国の群雄をはるかに凌駕《りょうが》して居り、つまり我国に於ける戦術の開祖と云うべきものである。
その二人が、川中島に於て、竜虎の大激戦をやったのであるから、戦国時代に於ける大小幾多の合戦中での精華と云ってもよいのである。
武田の家は、源義家の弟|新羅《しんら》三郎義光の後で、第十六代信虎の子が信玄である。幼名勝千代、天文五年十六歳で将軍足利義晴より諱字《いみな》を賜り、晴信と称した。この年父信虎信州佐久の海《うん》ノ口城の平賀源心を攻めたが抜けず、囲《かこい》を解いて帰るとき、信玄わずか三百騎にて取って返し、ホッと一息ついている敵の油断に乗じて城を陥れ、城将源心を討った。しかも父信虎少しも之を賞さなかったと云う。その頃から、父子の間不和で、後天文十年父信虎を、姉婿なる今川義元の駿河に退隠せしめて、甲斐一国の領主となる。時に年二十一歳。
若い時は、文学青年で詩文ばかり作っていたので、板垣信形に諫められた位である。だから、武将中最も教養あり、その詩に、
[#ここから4字下げ]
簷外風光分外薪《えんがいのふうこうぶんがいあらたなり》
|捲[#レ]簾《すだれをまけば》山色《さんしょく》|悩[#二]吟身[#一]《ぎんしんをなやます》
孱願亦《せんがんまた》|有[#二]娥眉趣[#一]《がびのおもむきあり》
一笑靄然《いっしょうあいぜん》|如[#二]美人[#一]《びじんのごとし》
[#ここで字下げ終わり]
歌に、
[#天から3字下げ]さみだれに庭のやり水瀬を深み浅茅《あさじ》がすゑは波よするなり
[#天から3字下げ]立ち並ぶかひこそなけれ桜花《さくらばな》松に千歳《ちとせ》の色はならはで
詩の巧拙は自分には分らないが、歌は武将としては上乗の部であろう。
又|経書《けいしょ》兵書に通じ、『孫子』を愛読して、その軍旗に『孫子』軍争編の妙語「|疾如[#レ]風《はやきことかぜのごとく》|徐如[#レ]林《しずかなることはやしのごとし》|侵略如[#レ]火《しんりゃくすることひのごとく》|不[#レ]動如[#レ]山《うごかざることやまのごとし》」を二行に書かせて、川中島戦役後は、大将旗として牙営《がえい》に翻していた。その外、諏訪明神を信仰し、「諏訪|南宮《なんぐう》上下大明神」と一行に大書した旗も用いていた。
上杉謙信は、元、長尾氏で平氏である。元来相州長尾の荘に居たので、長尾氏と称した。先祖が、関東から上杉氏に随従して越後に来り、その重臣となり、上杉氏衰うるに及んで勢力を得、謙信の父|為景《ためかげ》に及んで国内を圧した。為景死し、兄晴景継いだが、病弱で国内の群雄すら圧服することが出来ないので、弟謙信わずかに十四歳にして戦陣に出で、十九歳にして長尾家を相続し、春日山城に拠《よ》り国内を鎮定し、威名を振った。
しかし、謙信が上杉氏と称したのは、越後の上杉氏の嗣となったのではなくして、関東管領山ノ内上杉家を継いだのである。即ち三十二歳の時、山ノ内|憲政《のりまさ》から頼まれて、関東管領職を譲られ、上杉氏と称したのである。
その責任上、永禄三年兵を関東平野に進め、関東の諸大名を威服し、永禄四年に北条|氏康《うじやす》を小田原城に囲んで、その城濠|蓮池《はすいけ》のほとりで、馬から降り、城兵が鉄砲で狙《ねら》い打つにも拘らず、悠々閑々として牀几《しょうぎ》に腰かけ、お茶を三杯まで飲んだ。
謙信も亦、信玄に劣らぬ文武兼備の大将で、文芸の趣昧ふかく、詩にはおなじみの、
[#ここから4字下げ]
|霜満[#二]軍営[#一]《しもはぐんえいにみちて》秋気清《しゅうききよし》
数行過雁月三更《すうこうのかがんつきさんこう》
越山併得能州景《えつざんあわせえたりのうしゅうのけい》
遮莫家郷《さもあらばあれかきょう》|憶[#二]遠征[#一]《えんせいをおもう》
[#ここで字下げ終わり]
の詩があり、歌には、
[#天から3字下げ]ものゝふのよろひの袖を片しきし枕にちかき初雁《はつかり》の声
などある。現代の政治家や実業家の歌などよりは、はるかにうまい。
また兵学に精通し、敬神家で、槍は一代に冠絶し、春日《かすが》の名槍を自在に繰り、剣をよくして、備前|長船《おさふね》小豆長光二尺四寸五分の大刀を打ち振うのであるから、真に好個の武将である。
信玄が重厚精強であれば、謙信は尖鋭果断のかんしゃく持である。
太田|資正《かずまさ》謙信を評して、「謙信公のお人となりを見申すに十にして八つは大賢人、その二つは大悪人ならん。怒りに乗じて為したまうこと、多くは僻事《ひがごと》なり。これその悪《あ》しき所なり。勇猛にして無欲清浄にして器量大、廉直にして隠すところなく、明敏にして能く察し、慈恵にして下《しも》を育す、好みて忠諫《ちゅうかん》を容るる等、その善き所なり」と云った。
謙信は、川中島の一騎討などから考えるとどんな偉丈夫かと思われるが、「輝虎、体《たい》短小にして左脛《ひだりすね》に気腫《きしゅ》あり、攣筋《れんきん》なり」と云うから、小男で少しびっこと云うわけであるから、その烈々たる気魄が、短躯に溢れて、人を威圧した有様が想像される。
永禄四年川中島合戦には、謙信は上杉憲政から、一字を貰って、政虎と云っていたのである。その翌年将軍義輝から、一字貰って、輝虎と改めたのである。入道して、謙信と云ったのは、もっと前である。
謙信|會《か》つて曰く、「信玄は常に後途の勝を考え七里進むところは五里進み六分の勝をこよなき勝として七八分にはせざるよし。されど我は後途の勝を考えず、ただ弓矢の正しきによって戦うばかりぞ」と云っている。これに依って、この二将の弓矢の取り方が分ると思う。
元来、信濃には五人の豪族が割拠していた。次ぎの通りだ。
[#ここから3字下げ]
(1)[#「(1)」は縦中横]平賀源心(佐久郡。平賀城)
(2)[#「(2)」は縦中横]諏訪頼茂(諏訪郡。上原城)
(3)[#「(3)」は縦中横]小笠原長時(筑摩、安曇《あずみ》郡、深志《ふかし》城〈松本〉)
(4)[#「(4)」は縦中横]木曾義康(木曾谷、福島城〈福島〉)
(5)[#「(5)」は縦中横]村上義清(小県《ちいさがた》、埴科《はにしな》、更科、水内《みちの》、高井諸郡、葛尾《くずお》城)
[#ここで字下げ終わり]
信玄は、天文九年から、天文十七年にかけて、これらの諸豪を順次に攻めて、これを滅し、その中《うち》最も強大なる村上義清を駆逐して、遂に謙信にその窮状を訴えしむるに至った。
川中島合戦は、村上義清を救うための義戦と云われている。しかし北信にまで武田の手が延びた以上、越後何ぞ安からんである。信濃から春日山城までは、わずか十数里である。常に武田の脅威を受けていては、謙信上洛の志も関東経営の雄志も、伸すに由ないのである。今北信の諸豪が泣きついて来たのこそ、又とない機会である。義戦を説《とな》えて、武田を贋懲《ようちょう》すべき時が到来したのである。
されば、川中島出陣に際して、越後岩船の色部《しきぶ》勝長に送った書状にも、
「(前略)雪中御大儀たるべしと雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣|待入《まちいり》候。信州味方中滅亡の上は、当国の備《そなえ》安からず候条」
と云っている。義戦であると共に、自衛戦でもあった。
信玄も亦、上洛の志がある。それには、後顧の憂を断つために、謙信に大打撃を与うることが、肝要である。されば、北条氏康、今川義元と婚を通じ、南方の憂を絶ち、専《もっぱ》ら北方経営に当らんとした。
そして、謙信が長駆小田原を囲んだとき、信玄は信濃に入って、策動したのである。
謙信は、永禄四年春小田原攻囲中、信玄動くと聴き、今度こそは信玄と有無の一戦すべしとして、越後に馳せ帰ったのである。二年越の関東滞陣で兵馬が疲れているにも拘らず、直ちに陣触《じんぶれ》に及び、姉婿長尾|政景《まさかげ》に一万の兵を托して、春日山城を守らしめ、自分は一万三千の兵を率いて、一は北国街道から大田切、小田切の嶮を越えて善光寺に出で、一は間道倉富峠から飯山に出た。
「今度《このたび》信州の御働きは先年に超越し、御遺恨益々深かりければこの一戦に国家の安否をつけるべきなり云々」とあるから、謙信が覚悟のほども察すべきである。
時正に秋も半《なかば》、軍旅の好期である。飯山に出でた謙信は、善光寺にも止《とどま》らず、大胆不敵にも敵の堅城たる海津城の後方をグルリと廻り、海津城の西方十八町にある妻女山(西条山ともかく)に向った。北国街道の一軍は、善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を南進し、海津城の前面を悠々通って妻女山に到着した。
甲の名将|高坂《こうさか》弾正昌信の守る堅城の前後を会釈もなく通って、敵地深く侵入して妻女山に占拠したわけである。正に大胆不敵の振舞で敵も味方も驚いた。しかし妻女山たる、巧みに海津城の防禦正面を避け、その側背を脅かしている好位置で、戦術上地形判断の妙を極めたものであるらしい。凡将ならば千曲川の左岸に陣取って、海津城にかかって行ったに違いないのである。
『越後軍紀』に「信玄西条山へ寄せて来て攻むるときは、彼が陣形常々の守《まもり》を失ふべし、その時無二の一戦を遂げて勝負すべし」とある。
八月十六日妻女山に着いた謙信は、日頃尊信する毘沙門天《びしゃもんてん》の毘の一字を書いた旗と竜の一字をかいた旗とを秋風に翻して、海津の高坂昌信を威圧したわけである。竜字の旗は突撃に用いられ「みだれ懸りの竜の旗」と云われた。
海津城の高坂昌信は、狼烟《のろし》に依って急を甲府に伝え、別に騎馬の使を立てて、馬を替えつつ急報した。自らは、城濠を深くして、死守の決心をなした。
予《かね》て、かくあるべしと待ちかねていた信玄は、その報をきくと南信の諸将に軍勢を催促しつつ、十八日に甲府を立ち、二十二日には上田に到着している。その兵を用うる正に「疾きこと風の如し」である。
そして、上田に於て、軍議をこらして、川中島に兵を進めるや、これまた謙信に劣らざる大胆さで、謙信の陣所たる妻女山の西方を素通りして、その西北方の茶臼山に陣した。
謙信が、海津城を尻目にかけ、わざと敵中深く入ると、信玄はまたそれを尻目にかけて、敵の退路を断ってしまったわけである。
実に痛快極まる両将の応酬ぶりである。
かくて、謙信は、自ら好んで嚢《ふくろ》の鼠となったようなものである。信玄大いに喜び、斥候を放って、妻女山の陣営を窺わせると、小鼓《こつづみ》を打って謡曲『八島』を謡っている。信玄案に相違して、諸方に斥候を放つと、旭山城に謙信の伏兵あるを知り、茶臼山の陣を撤して海津城に入った。自分の方が、妻女山と旭山城との敵軍に挾撃される事を心配したのかも知れない。
かくて、信玄は海津城に謙信は妻女
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング