山に相対峙すること十余日に及んで、いつか九月九日|重陽《ちょうよう》の節句になった。
 謙信は悠々として、帰国する容子はない。と云って海津城から、直接攻勢に出づることは不利である。
 節句の祝を終って、信玄諸将と軍議を開いた。
 宿将|飯富《おぶ》兵部等、「先年以来未だ一度も手詰の御合戦なし。此度《このたび》是非とも、御一戦しかるべし」と云う。信玄、攻撃に転ずるに決し、山本勘助、馬場民部に命じて、攻撃計画を立てさせた。
 山本等の作戦計画は、次ぎの通りである。
「二万の御人数の裡《うち》、一万二千を以て、西条村の奥森の平《たいら》を越え倉科《くらしな》村へかかって、妻女山に攻めかかり、明朝卯の刻に合戦を始める。謙信は勝っても負けても必ず川を越えて、川中島に出でるであろう。その時信玄旗本八千を以って途中に待ち受け、前後より攻撃すれば、味方の勝利疑いなし」
 と云うのである。
 信玄、高坂弾正、飯富兵部、馬場民部、真田幸隆等に一万二千を率いしめて、妻女山の背面を襲わしめ、謙信が巣から飛び出す処を打とうと云うのである。古人、之を「啄木鳥《きつつき》の戦法」と云った。即ち啄木鳥が、木中の虫を捕えるとき、穴と反対の側をコツコツと啄き、虫をおどろかして穴から出たところを喰べようと云うのである。その上、重陽の節句を利用して、敵の油断に乗じたのである。
 しかし、啄木鳥に穴の底を叩かれて、ノコノコ這い出すような謙信ではなかった。
 八月十六日以来、謙信は只々山上を逍遙《しょうよう》して古詩を咏じ琵琶を弾じ自ら小鼓をうって近習に謡わせるなど余裕|綽々《しゃくしゃく》であった。直江大和守等これを不安に思い、「敵は川中島に陣取り、我が糧道を絶ちたるため、我が軍の糧食は今後|将《まさ》に十日にして尽きん。速《すみやか》に春日山の留守隊に来援を命じ甲軍の背後を衝《つ》かしめられては如何《いかん》」と進言したが、謙信は「十日の糧食があれば充分だ」と云って聴かず、大和守は「もし晴信海津の城兵を以て我を牽制し彼自ら越後に入らば策の施すべきなし」といえば、謙信笑って「春日山は厳重にしてあるから不安はない。晴信もし越後に入らば我|亦《また》甲府をつかんのみ」と言ってすましていた。九月九日謙信は重陽の佳節を祝した後、夕方例の如く古詩を誦しつつ高地を漫歩しつつ遙に海津城をのぞめば炊煙異常に立ちのぼっている。謙信は忽ち甲軍の出動を予感した。「しのびの兵」(透波《スッパ》間諜)のもち来《きた》る情報も入ったので、甲軍が隊を二分し、一は妻女山の背後に廻り、一は川中島に邀撃《ようげき》の計画であることが分ったので、我先ず先んじて出で奇襲を試みようと決心した。謙信の得意思うべしである。このことを期しての二十四日の辛抱であったのだ。穴中の虫は、啄木鳥の叩くを待たず自ら躍り出でて信玄を襲わんと云うのである。この時の越軍の軍隊区分は次の如くで、やがて行動を開始した。時に午後六時である。
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先鋒    柿崎大和守
中軍(旗本)色部修理進
      竹俣三河守
      村上 義晴
      島津 規久
右備    新発田《しばた》尾張守
      山吉孫次郎
      加地彦次郎
左備    本庄越前守
      安田治部少輔
      長尾遠江守
後備    中条越前守
      古志駿河守
後押    甘粕近江守
小荷駄(輜重《しちょう》)直江大和守
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 さて一般士卒には、
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一、明十日御帰陣の旨|仰出《おおせいだ》さる。尤も日短き故|夜更《よふ》けに御立あるやも知れず
二、静粛に行進して途中敵兵之を遮《さえぎ》らば切りやぶって善光寺へ向うと心得べし
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 と伝えられた。
 九日の月の西山に没するや(十一時頃か)、上杉軍は静に行動を起した。兵は物言わず馬は舌を縛して嘶《いなな》くを得ざらしめた。全軍粛々妻女山をくだり其状長蛇の山を出づるが如くして狗《いぬ》ヶ瀬をわたった。時正に深更夜色沈々只鳴るものは鎧の草摺のかすかな音のみである。只、甘粕近江守は妻女山の北赤坂山に止り、後押として敵を警戒しつつ、十二ヶ瀬を渡って小森附近に止った。一方妻女山には陣中の篝火《かがりび》は平常通りにやかれつづけ、紙の擬旗が夜空に、無数にひるがえっていた。
 かくて十日の午前二時半頃越軍は犀川の南方に東面して陣取り、剛勇無比の柿崎和泉守を先陣に大将謙信は毘字旗と日の丸の旗を陣頭に押し立てて第二陣に控えて、決戦の朝《あした》を待った。ただ小荷駄の直江大和守は北国街道を北進して犀川を小市《こいち》の渡《わたし》にて渡り善光寺へと退却せしめた。甘粕隊は遠く南方小森に於て妻女山から来るべき敵に備えた。時に川中島は前夜細雨があったためか、一寸先もわからぬ濃霧である。
『川中島五度合戦記』に「越後陣所ヨリ草刈ドモ二三十人未明ヨリ出デカケマハリ云々」とあるは、天文二十三年のこととして出ているが、それは間違いであるから、おそらくこの時のことであろう。越後の軍より草刈の農夫に化けた斥候が、川中島を右に左にはい廻ったのであろう。謙信は斥候を放って敵の旗本軍の行動をさぐらせ、甲軍が広瀬を渡ったことを知り、奇襲して敵を粉砕し、旗本を押し包んで、信玄を討ち取ろうと、水沢の方向にむかって静かに前進をおこした。戦わずして謙信は十二分の勝利である。
 妻女山に向った甲軍は、地理に明かな、高坂弾正が先導で、月の西山に没する頃には海津を発し倉科の山越しに妻女山へむかった。しかしこれは山間の小径《しょうけい》で秋草が道をおおっているので行軍に難渋した。しかも、一万二千の大軍であるから夜明け前に妻女山に到着する筈であったのが、はるかに遅れた。
 一方信玄の旗本は、剛勇の山県昌景が先鋒となり、十日|寅《とら》の刻(午前四時)に海津城を出で、広瀬に於て千曲川を渡り、山県は神明附近に西面して陣し、左水沢には武田信繁その左には穴山伊豆が陣取り、又右には両角《もろずみ》豊後内藤修理が田中附近に陣した。信玄は八幡社の東方附近に、他の諸隊はこの左右前後に陣す。この位置は今|三太刀《みたち》七太刀と称せられていると云う。信玄の傍には諏訪神号旗と孫子の旗がひるがえっている。時に濃霧(川中島の名物)が深く立ちこめて一寸先もみえない。甲軍は越軍が川中島に来るのは辰《たつ》の刻(午前八時)とかんがえ、厳然たる隊形は整えずにいたらしい。ただ信玄は腰をかけたまま妻女山をにらんで何等かの変化を期待している。何ぞ知らんや上杉軍は半里の前方に展開しているのであった。
 既に卯の刻(午前六時)となったし、濃霧は次第にはれてきた。不図《ふと》前方をみればこは如何に、越の大軍が潮《うしお》の如く我に向って前進中である。正に「暁に見る千兵の大牙を擁するを」だ。「武田の諸勢も之を見て大に仰天し、こは何時の間に斯《かか》る大軍が此の地に来れる。天よりは降りけん地よりは湧《わ》き出でけん、誠に天魔の所行なりとさしもに雄《はや》る武田の勇将猛士も恐怖の色を顕《あらわ》し諸軍浮足立つてぞ見えたりける」(『甲陽軍記』)
 謙信は、一万三千の内旭山城に五千を残したから、精兵八千で、人数は同じであるが、不意に出られた武田勢は、最初から精神的な一撃を受けたのである。
 さすがに百戦練磨の信玄は少しもおどろかず、浦野民部に敵情をさぐらせたところ、「謙信味方の備を廻って立ちきり幾度もかくの如く候て犀川の方へ赴き候」との報告、信玄公|聞召《きこしめ》し、「さすがの浦野とも覚えぬことを申すものかな、それは車懸《くるまがかり》とて幾廻り目に旗本と敵の旗本と打合って一戦する時の軍法なり」とあって備を立直したと云う。
(だが車懸とは如何するのか一寸《ちょっと》疑問で、大軍を立ちきり立ちきり廻すというのは、実際困難である。だが、軍記作者のヨタでもないらしく、実際川中島に於ける謙信の陣立は水車の如く、旗本を軸としてまわって陣し、全軍が敵軍に当った。しかし精しいことは分らない)
 越軍は先鋒柿崎和泉守が大蕪菁《おおかぶら》の旗を先頭に一隊千五百人が猛進をはじめ、午前七時半頃水沢の西端に陣取っていた武田左馬之介|典厩《てんきゅう》信繁の隊(七百)に向って突撃してきた。典厩隊は大に狼狽したが、槍をとって鬨をあげて応戦した甲軍は、まだ陣の立て直しもすまぬ時であったが、おちついた信玄の命令にしたがって勇躍敵にあたった。信玄は陣形を十二段に構え、迂廻軍の到着迄持ちこたえる策をとり、百足《むかで》の指物差した使番衆を諸隊に走らせて、諸隊その位置をなるべく保つようにと、厳命した。
 柿崎隊と典厩隊との白兵戦は川中島の静寂を破り、突き合う槍の響き、切り結ぶ太刀の音凄じく、剣槍の閃《ひらめ》きが悽愴《せいそう》を極めた。柿崎隊は新手を入れかえ入れかえ無二無三につき進み切り立てたため、さしもの典厩隊も苦戦となり隊伍次第に乱れるにいたった。この日、典厩信繁は、黄金《こがね》作りの武田|菱《びし》の前立《まえだて》打ったる兜をいただき、黒糸に緋を打ちまぜて縅《おど》した鎧を着、紺地の母衣《ほろ》に金にて経文を書いたのを負い、鹿毛《かげ》の馬に跨《またが》り采配を振って激励したが、形勢非となったので憤然として母衣を脱して家来にわたし、わが子信豊に与えて遺物《かたみ》となし、兜の忍《しのび》の緒をきって三尺の大刀をうちふり、群がり来る越兵をきりすて薙たおし、鬼神の如く戦ったが、刀折れ力つきて討死した。とにかく、信玄の弟が戦死する騒ぎであるからその苦戦察すべしである。
 ここに山県隊の一部が典厩隊を援けたため、柿崎隊も後退のやむなきにいたった。又前方で新発田隊と穴山隊の混戦があったが、穴山隊も死力をつくして激戦した。この時越の本庄、安田、長尾隊は甲の両角、内藤隊と甲軍の右翼で接戦し、甲軍の死傷漸く多く、隊長両角豊後守虎定は今はこれまでと桶皮胴の大鎧に火焔頭《かえんがしら》の兜勇ましく逞しき葦毛《あしげ》に跨り、大身の槍をうちふって阿修羅の如く越兵をなぎたおしたが、槍折れ力つきて討死した。
 ここに於て両角、内藤隊が後退し、柿崎隊と山吉隊は協力して甲の猛将山県隊を打ち退けたので、信玄の旗本の正面が間隙を生じた。謙信はこれをみてとり、その旗本を鶴翼《かくよく》の陣、即ち横にひろがる隊形に展開して、八幡原の信玄の旗本めがけて槍刀を揮って突撃した。その勢三千、謙信の旗本も、猛然之をむかえて邀撃し、右の方望月隊及び信玄の嫡子太郎義信の隊も、左備《ひだりそなえ》の原|隼人《はやと》、武田逍遙軒も来援して両軍旗本の大接戦となった。
 これより先山本勘助晴幸は、今度の作戦の失敗の責任を思い、六十三歳の老齢を以て坊主頭へ白布で鉢巻きをなし、黒糸縅しの鎧を着、糟毛《かすげ》の駿馬にうちまたがり三尺の太刀をうちふり、手勢二百をつれて岡附近の最も危険な所に出で、越軍の中に突入し、身に八十六ヶ所の重傷をうけて部下と共に討死した。
 この頃両軍の後備は全部前線に出て一人の戦わざる者もなく、両軍二万の甲冑《かっちゅう》武者が八幡原にみちみちて切り結び突きあった。壮観である。信玄の嫡子、太郎義信は時に二十四歳、武田菱の金具|竜頭《りゅうず》の兜を冠り、紫|裾濃《すそご》の鎧を着、青毛の駿馬に跨って旗本をたすけて、奮戦したことは有名である。その際|初鹿野《はじかの》源五郎忠次は主君義信を掩護《えんご》して馬前に討死した。越軍の竜字の旗は、いよいよ朝風の中に進出して来る。
 甲軍の旗色次第に悪く、信玄牀几の辺りに居た直属の部下も各自信玄を離れて戦うにいたり、牀几近くには二三近習のものが止ったにすぎない。しかし動ぜざること山の如き信玄は牀几に腰をおろして、冷静な指揮をつづけていた。
 信玄は黒糸縅しの鎧の上に緋の法衣をはおり、明珍《みょうちん》信家の名作諏訪|法性《ほっしょう》の兜をかむり、後刻の勝利を期待して味方の諸勢をはげましていた。時に年四十一歳。
 この日、
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