の上は、当国の備《そなえ》安からず候条」
 と云っている。義戦であると共に、自衛戦でもあった。
 信玄も亦、上洛の志がある。それには、後顧の憂を断つために、謙信に大打撃を与うることが、肝要である。されば、北条氏康、今川義元と婚を通じ、南方の憂を絶ち、専《もっぱ》ら北方経営に当らんとした。
 そして、謙信が長駆小田原を囲んだとき、信玄は信濃に入って、策動したのである。
 謙信は、永禄四年春小田原攻囲中、信玄動くと聴き、今度こそは信玄と有無の一戦すべしとして、越後に馳せ帰ったのである。二年越の関東滞陣で兵馬が疲れているにも拘らず、直ちに陣触《じんぶれ》に及び、姉婿長尾|政景《まさかげ》に一万の兵を托して、春日山城を守らしめ、自分は一万三千の兵を率いて、一は北国街道から大田切、小田切の嶮を越えて善光寺に出で、一は間道倉富峠から飯山に出た。
「今度《このたび》信州の御働きは先年に超越し、御遺恨益々深かりければこの一戦に国家の安否をつけるべきなり云々」とあるから、謙信が覚悟のほども察すべきである。
 時正に秋も半《なかば》、軍旅の好期である。飯山に出でた謙信は、善光寺にも止《とどま》らず、大胆不
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