》を容るる等、その善き所なり」と云った。
謙信は、川中島の一騎討などから考えるとどんな偉丈夫かと思われるが、「輝虎、体《たい》短小にして左脛《ひだりすね》に気腫《きしゅ》あり、攣筋《れんきん》なり」と云うから、小男で少しびっこと云うわけであるから、その烈々たる気魄が、短躯に溢れて、人を威圧した有様が想像される。
永禄四年川中島合戦には、謙信は上杉憲政から、一字を貰って、政虎と云っていたのである。その翌年将軍義輝から、一字貰って、輝虎と改めたのである。入道して、謙信と云ったのは、もっと前である。
謙信|會《か》つて曰く、「信玄は常に後途の勝を考え七里進むところは五里進み六分の勝をこよなき勝として七八分にはせざるよし。されど我は後途の勝を考えず、ただ弓矢の正しきによって戦うばかりぞ」と云っている。これに依って、この二将の弓矢の取り方が分ると思う。
元来、信濃には五人の豪族が割拠していた。次ぎの通りだ。
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(1)[#「(1)」は縦中横]平賀源心(佐久郡。平賀城)
(2)[#「(2)」は縦中横]諏訪頼茂(諏訪郡。上原城)
(3)[#「(3)」は縦中横]小笠原長時(
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