謙信と称したのは二十歳頃からである。
(二)太田資正は道灌《どうかん》の孫で三楽と号した。智謀あり、秀吉、家康に向って嗟嘆して曰く、「今|茲《ここ》に二つの不思議あり、君知れりや」と。家康曰く「一つは三楽ならん、二つは分らず」と。秀吉曰く、「我匹夫より起りて、天下に主たると、三楽が智ありて一国をも保つ能わざるとこれ二つの不思議なり」と。また秀吉三楽に向って曰く、「御身は智仁勇の三徳ある、良将なり、されど小身なり、我一徳もなし、しかし天下を取るが得手なり」と。大小の戦い七十九度、一番槍二十三度、智は天下に鳴っている名将だったが、出世運の悪かった男である。
(三)謙信が幾太刀も斬りつけながら信玄を打ち洩したのはダラシがないようだが、馬上の太刀打で間遠でどうにもならなかったらしい。後で「あのとき槍を持っていたならば、決して打ち洩《もら》すまじきに」と云って謙信が嘆息している。槍を持っていなかったため流星光底長蛇を逸したのである。――作者――
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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ
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