かし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝とす」としてある。芝居と云うのは、多分戦場と云うことであろう。つまり戦場に居残った方が勝である。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
 豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝なり、辰の刻より巳《み》の刻までは武田方の勝なり」と云っているが、これは一番正当な批評かも知れない。その後、永禄七年の戦に、甲越両軍多年の勝負を角力《すもう》に決せんとし、甲軍より大兵の安間彦六、越軍より小兵の長谷川与五左衛門を出して組み打ちさせ、与五左衛門勝って、川中島四郡越後に属したとあるが、之は嘘らしい。
 川中島合戦の蒔、信玄は四十一歳、謙信は三十二歳である。秀吉に云わせると「ハカの行かない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいい取組みで、拳闘で云えば、体重の相違もなく、両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引分けになったのは、当然かも知れないのである。

     附記

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(一)上杉謙信が、入道して
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