もあり首をとつて立ちあがれば其首は、我主なりと名乗つて鑓《やり》つけるを見ては又其者を斬り伏せ後には十八九歳の草履取りまで手と手を取合差違へ候」とある。両旗本の激戦の様を記しているのである。他の諸隊も皆この通りであっただろう。とにかく甲越二軍の精兵が必死に戦ったのであるから、猛烈を極めただろう。後年大阪陣の時抜群の働で感状を貰った上杉家臣杉原|親憲《ちかのり》が「此度の戦いなぞは謙信公時代の戦いに比べては児戯のようだ」といったことがある。
 一方妻女山に向った甲軍は午前七時頃妻女山に達し足軽を出して敵に当らしめたが山上|寂《せき》として声なく、敵の隻影もみえない。あやしげな紙の擬旗がすすきの間にゆれているばかりである。そのうち朝霧のはれた川中島の彼方から吶声《ときのこえ》、鉄砲の音がきこえるので切歯して、十将が川中島を望んで馳《か》け降りた。かくて、最も近い徒渉場たる十二ヶ瀬を渡ろうと急ぐや、越の殿軍甘粕近江守は川辺の葦間から一斉に鉄砲の雨をあびせたので、甲州兵悩まされながら、川の上下、思い思いに雨の宮の渡《わたし》猫ヶ瀬等から川を渡り北進した。猫ヶ瀬を渡った小山田隊は最も早く川中島に
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