団体戦法に於て、用兵に於て、戦国の群雄をはるかに凌駕《りょうが》して居り、つまり我国に於ける戦術の開祖と云うべきものである。
その二人が、川中島に於て、竜虎の大激戦をやったのであるから、戦国時代に於ける大小幾多の合戦中での精華と云ってもよいのである。
武田の家は、源義家の弟|新羅《しんら》三郎義光の後で、第十六代信虎の子が信玄である。幼名勝千代、天文五年十六歳で将軍足利義晴より諱字《いみな》を賜り、晴信と称した。この年父信虎信州佐久の海《うん》ノ口城の平賀源心を攻めたが抜けず、囲《かこい》を解いて帰るとき、信玄わずか三百騎にて取って返し、ホッと一息ついている敵の油断に乗じて城を陥れ、城将源心を討った。しかも父信虎少しも之を賞さなかったと云う。その頃から、父子の間不和で、後天文十年父信虎を、姉婿なる今川義元の駿河に退隠せしめて、甲斐一国の領主となる。時に年二十一歳。
若い時は、文学青年で詩文ばかり作っていたので、板垣信形に諫められた位である。だから、武将中最も教養あり、その詩に、
[#ここから4字下げ]
簷外風光分外薪《えんがいのふうこうぶんがいあらたなり》
|捲[#レ]簾《すだれ
前へ
次へ
全28ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング