越の主将上杉輝虎(本当はまだ政虎)は紺糸縅の鎧に、萌黄緞子《もえぎどんす》の胴|肩衣《かたぎぬ》をつけ、金の星兜の上を立烏帽子《たてえぼし》白妙《しろたえ》の練絹を以て行人包《ぎょうにんづつみ》になし、二尺四寸五分順慶長光の太刀を抜き放ち、放生《ほうしょう》月毛と名づくる名馬に跨り、摩利支天の再来を思わせる恰好をしていた。
今や、信玄の周辺人なく好機逸すべからずとみてとった謙信は馬廻りの剛兵十二騎をしたがえて義信の隊を突破し信玄めがけて殺到して来た。禅定《ぜんじょう》のいたすところか、その徹底した猛撃は正に鬼神の如くである。これをみた信玄の近侍の者二十人は槍襖《やりぶすま》を作って突撃隊を阻止したが、その間を馳《か》け通って、スワと云う間もなく信玄に近寄った謙信は、長光の太刀をふりかぶって、信玄めがけて打ちおろした(謙信時に三十二歳)。琵琶の文句通り、信玄は刀をとる暇もない。手にもった軍配|団扇《うちわ》で発止と受けとめたが、つづく二の太刀は信玄の腕を傷《きずつ》け、石火の如き三の太刀はその肩を傷けた。この時あわてて馳けつけた原大隅守虎義は傍《かたわら》にあった信玄の青貝の長槍をとって、相手の騎馬武者を突いたがはずれ、その槍は馬の三頭《さんず》(背すじの後部)をしたたか突いたので、馬はおどろいてかけ出したので、信玄は虎口を逃れた。例の『五戦記』では、この騎馬武者を誰とも知らず越後の荒川伊豆守なるべしと取沙汰したが、それを「政虎聞キ候テ可討留《うちとどむべき》物ヲ残リ多シト皆ニ|申《もうし》候|由《よし》」とある。戦国の世激戦多しと雖も未だ主将が武器をとって一騎討したという例は、多くはないようである。信玄は、その後も神色自若、孫子の旗と法性の旗をかざして牀几を動かず何事もなかりしが如く軍配をふって指揮したと云うが、あまりそうでもなかっただろう(後団扇を検したところ八個所の痕《あと》があったというからよほど何回かうちおろしているわけである)。原大隅守は殊勲の槍を高くあげて、「今妻女山より味方の先手衆駈けつけたぞ、戦いは味方の勝ちぞ」と叫びまわった。信玄の落着き振りと、この機宜の処置とは将《まさ》に崩れかかった味方に百倍の勇気を与えた。この時の有様を『甲陽軍鑑』に、
「敵味方三千七百の人数入り乱れて突いつ突かれつ伐つ伐たれつ互に具足の綿噛《わたが》みを取り合ひ組んで転ぶもあり首をとつて立ちあがれば其首は、我主なりと名乗つて鑓《やり》つけるを見ては又其者を斬り伏せ後には十八九歳の草履取りまで手と手を取合差違へ候」とある。両旗本の激戦の様を記しているのである。他の諸隊も皆この通りであっただろう。とにかく甲越二軍の精兵が必死に戦ったのであるから、猛烈を極めただろう。後年大阪陣の時抜群の働で感状を貰った上杉家臣杉原|親憲《ちかのり》が「此度の戦いなぞは謙信公時代の戦いに比べては児戯のようだ」といったことがある。
一方妻女山に向った甲軍は午前七時頃妻女山に達し足軽を出して敵に当らしめたが山上|寂《せき》として声なく、敵の隻影もみえない。あやしげな紙の擬旗がすすきの間にゆれているばかりである。そのうち朝霧のはれた川中島の彼方から吶声《ときのこえ》、鉄砲の音がきこえるので切歯して、十将が川中島を望んで馳《か》け降りた。かくて、最も近い徒渉場たる十二ヶ瀬を渡ろうと急ぐや、越の殿軍甘粕近江守は川辺の葦間から一斉に鉄砲の雨をあびせたので、甲州兵悩まされながら、川の上下、思い思いに雨の宮の渡《わたし》猫ヶ瀬等から川を渡り北進した。猫ヶ瀬を渡った小山田隊は最も早く川中島に達し、越軍の最右翼新発田隊に向って猛烈に突撃した。この新手に敵し難く新発田隊は退却をはじめ、狗ヶ瀬を渡った甲軍も、謙信の旗本の背後にむかって猛進した。今や迂廻軍が敵の背後で喊声《かんせい》をあげているのを聞いた信玄の旗本軍も、士気|頓《とみ》にふるい、各将は「先手衆が来たぞ戦は勝ぞ」と連呼しつつ旗をふり鞍をたたいて前進した。形勢一変、今や越軍は総退却のやむなきに至った。そこで主将謙信は広瀬の方面に敵を圧迫していた諸将に速に兵をおさめて犀川方面に退却するよう命じ、親《みずか》らも柿崎等と共に背後の妻女山を迂廻して来た甲軍に当りつつ退いた。太郎義信も軍をととのえて謙信の旗本を追撃した。謙信は諸隊の退却をみとどけて最後に退いたが、甲軍の追撃猛烈のため犀川に退却するのが困難になったので、東方に血路を開き三牧畠《みまきばたけ》の瀬を渡って退いたといわれる。越軍の大部分は陣馬ヶ原で返撃し、丹波島の犀川を渡って善光寺方面へ総退却した。この犀川をわたるに当って甲軍の新手の追撃をうけて或は討死し或は溺れる者が続出した。犀川は水量が相当に多いのである。
越の殿軍甘粕近江守景持は部下を集めて最後に退却をお
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