こした。甲軍はこれを越の旗本とみたそうである。しかして田牧の北方附近にいたるや高坂弾正の急追をうけこれに応戦した。高坂は妻女山より自分の持城たる海津城を気づかってこれに向い、それより八幡原に出たので、時すでに敵を犀川方面に追討している時だったので、甘粕隊をみてよき敵にがすなとばかりどっと突撃した。甘粕隊は時々逆襲しつつ犀川を渡り、悠々左岸の市村に陣取り大扇《たいせん》の大纏《おおまとい》を岸上に高く掲げて敗兵を収容した。この甘粕隊の殿軍ぶりはながく川中島合戦を語るものの感嘆する所である。
これで、川中島合戦は終ったわけである。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
損傷を比べて見ると、
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上杉方
死者三千四百
武田方
死者四千五百
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これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟信繁は討死し、信玄自身、子の義信も負傷している。上杉方は、名ある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝とす」としてある。芝居と云うのは、多分戦場と云うことであろう。つまり戦場に居残った方が勝である。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝なり、辰の刻より巳《み》の刻までは武田方の勝なり」と云っているが、これは一番正当な批評かも知れない。その後、永禄七年の戦に、甲越両軍多年の勝負を角力《すもう》に決せんとし、甲軍より大兵の安間彦六、越軍より小兵の長谷川与五左衛門を出して組み打ちさせ、与五左衛門勝って、川中島四郡越後に属したとあるが、之は嘘らしい。
川中島合戦の蒔、信玄は四十一歳、謙信は三十二歳である。秀吉に云わせると「ハカの行かない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいい取組みで、拳闘で云えば、体重の相違もなく、両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引分けになったのは、当然かも知れないのである。
附記
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(一)上杉謙信が、入道して謙信と称したのは二十歳頃からである。
(二)太田資正は道灌《どうかん》の孫で三楽と号した。智謀あり、秀吉、家康に向って嗟嘆して曰く、「今|茲《ここ》に二つの不思議あり、君知れりや」と。家康曰く「一つは三楽ならん、二つは分らず」と。秀吉曰く、「我匹夫より起りて、天下に主たると、三楽が智ありて一国をも保つ能わざるとこれ二つの不思議なり」と。また秀吉三楽に向って曰く、「御身は智仁勇の三徳ある、良将なり、されど小身なり、我一徳もなし、しかし天下を取るが得手なり」と。大小の戦い七十九度、一番槍二十三度、智は天下に鳴っている名将だったが、出世運の悪かった男である。
(三)謙信が幾太刀も斬りつけながら信玄を打ち洩したのはダラシがないようだが、馬上の太刀打で間遠でどうにもならなかったらしい。後で「あのとき槍を持っていたならば、決して打ち洩《もら》すまじきに」と云って謙信が嘆息している。槍を持っていなかったため流星光底長蛇を逸したのである。――作者――
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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5−86)(「八十六ヶ所」)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「狗《いぬ》ヶ瀬」等)を小振りにつくっています。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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