千を残したから、精兵八千で、人数は同じであるが、不意に出られた武田勢は、最初から精神的な一撃を受けたのである。
さすがに百戦練磨の信玄は少しもおどろかず、浦野民部に敵情をさぐらせたところ、「謙信味方の備を廻って立ちきり幾度もかくの如く候て犀川の方へ赴き候」との報告、信玄公|聞召《きこしめ》し、「さすがの浦野とも覚えぬことを申すものかな、それは車懸《くるまがかり》とて幾廻り目に旗本と敵の旗本と打合って一戦する時の軍法なり」とあって備を立直したと云う。
(だが車懸とは如何するのか一寸《ちょっと》疑問で、大軍を立ちきり立ちきり廻すというのは、実際困難である。だが、軍記作者のヨタでもないらしく、実際川中島に於ける謙信の陣立は水車の如く、旗本を軸としてまわって陣し、全軍が敵軍に当った。しかし精しいことは分らない)
越軍は先鋒柿崎和泉守が大蕪菁《おおかぶら》の旗を先頭に一隊千五百人が猛進をはじめ、午前七時半頃水沢の西端に陣取っていた武田左馬之介|典厩《てんきゅう》信繁の隊(七百)に向って突撃してきた。典厩隊は大に狼狽したが、槍をとって鬨をあげて応戦した甲軍は、まだ陣の立て直しもすまぬ時であったが、おちついた信玄の命令にしたがって勇躍敵にあたった。信玄は陣形を十二段に構え、迂廻軍の到着迄持ちこたえる策をとり、百足《むかで》の指物差した使番衆を諸隊に走らせて、諸隊その位置をなるべく保つようにと、厳命した。
柿崎隊と典厩隊との白兵戦は川中島の静寂を破り、突き合う槍の響き、切り結ぶ太刀の音凄じく、剣槍の閃《ひらめ》きが悽愴《せいそう》を極めた。柿崎隊は新手を入れかえ入れかえ無二無三につき進み切り立てたため、さしもの典厩隊も苦戦となり隊伍次第に乱れるにいたった。この日、典厩信繁は、黄金《こがね》作りの武田|菱《びし》の前立《まえだて》打ったる兜をいただき、黒糸に緋を打ちまぜて縅《おど》した鎧を着、紺地の母衣《ほろ》に金にて経文を書いたのを負い、鹿毛《かげ》の馬に跨《またが》り采配を振って激励したが、形勢非となったので憤然として母衣を脱して家来にわたし、わが子信豊に与えて遺物《かたみ》となし、兜の忍《しのび》の緒をきって三尺の大刀をうちふり、群がり来る越兵をきりすて薙たおし、鬼神の如く戦ったが、刀折れ力つきて討死した。とにかく、信玄の弟が戦死する騒ぎであるからその苦戦察すべしである。
ここに山県隊の一部が典厩隊を援けたため、柿崎隊も後退のやむなきにいたった。又前方で新発田隊と穴山隊の混戦があったが、穴山隊も死力をつくして激戦した。この時越の本庄、安田、長尾隊は甲の両角、内藤隊と甲軍の右翼で接戦し、甲軍の死傷漸く多く、隊長両角豊後守虎定は今はこれまでと桶皮胴の大鎧に火焔頭《かえんがしら》の兜勇ましく逞しき葦毛《あしげ》に跨り、大身の槍をうちふって阿修羅の如く越兵をなぎたおしたが、槍折れ力つきて討死した。
ここに於て両角、内藤隊が後退し、柿崎隊と山吉隊は協力して甲の猛将山県隊を打ち退けたので、信玄の旗本の正面が間隙を生じた。謙信はこれをみてとり、その旗本を鶴翼《かくよく》の陣、即ち横にひろがる隊形に展開して、八幡原の信玄の旗本めがけて槍刀を揮って突撃した。その勢三千、謙信の旗本も、猛然之をむかえて邀撃し、右の方望月隊及び信玄の嫡子太郎義信の隊も、左備《ひだりそなえ》の原|隼人《はやと》、武田逍遙軒も来援して両軍旗本の大接戦となった。
これより先山本勘助晴幸は、今度の作戦の失敗の責任を思い、六十三歳の老齢を以て坊主頭へ白布で鉢巻きをなし、黒糸縅しの鎧を着、糟毛《かすげ》の駿馬にうちまたがり三尺の太刀をうちふり、手勢二百をつれて岡附近の最も危険な所に出で、越軍の中に突入し、身に八十六ヶ所の重傷をうけて部下と共に討死した。
この頃両軍の後備は全部前線に出て一人の戦わざる者もなく、両軍二万の甲冑《かっちゅう》武者が八幡原にみちみちて切り結び突きあった。壮観である。信玄の嫡子、太郎義信は時に二十四歳、武田菱の金具|竜頭《りゅうず》の兜を冠り、紫|裾濃《すそご》の鎧を着、青毛の駿馬に跨って旗本をたすけて、奮戦したことは有名である。その際|初鹿野《はじかの》源五郎忠次は主君義信を掩護《えんご》して馬前に討死した。越軍の竜字の旗は、いよいよ朝風の中に進出して来る。
甲軍の旗色次第に悪く、信玄牀几の辺りに居た直属の部下も各自信玄を離れて戦うにいたり、牀几近くには二三近習のものが止ったにすぎない。しかし動ぜざること山の如き信玄は牀几に腰をおろして、冷静な指揮をつづけていた。
信玄は黒糸縅しの鎧の上に緋の法衣をはおり、明珍《みょうちん》信家の名作諏訪|法性《ほっしょう》の兜をかむり、後刻の勝利を期待して味方の諸勢をはげましていた。時に年四十一歳。
この日、
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