。謙信は忽ち甲軍の出動を予感した。「しのびの兵」(透波《スッパ》間諜)のもち来《きた》る情報も入ったので、甲軍が隊を二分し、一は妻女山の背後に廻り、一は川中島に邀撃《ようげき》の計画であることが分ったので、我先ず先んじて出で奇襲を試みようと決心した。謙信の得意思うべしである。このことを期しての二十四日の辛抱であったのだ。穴中の虫は、啄木鳥の叩くを待たず自ら躍り出でて信玄を襲わんと云うのである。この時の越軍の軍隊区分は次の如くで、やがて行動を開始した。時に午後六時である。
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先鋒 柿崎大和守
中軍(旗本)色部修理進
竹俣三河守
村上 義晴
島津 規久
右備 新発田《しばた》尾張守
山吉孫次郎
加地彦次郎
左備 本庄越前守
安田治部少輔
長尾遠江守
後備 中条越前守
古志駿河守
後押 甘粕近江守
小荷駄(輜重《しちょう》)直江大和守
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さて一般士卒には、
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一、明十日御帰陣の旨|仰出《おおせいだ》さる。尤も日短き故|夜更《よふ》けに御立あるやも知れず
二、静粛に行進して途中敵兵之を遮《さえぎ》らば切りやぶって善光寺へ向うと心得べし
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と伝えられた。
九日の月の西山に没するや(十一時頃か)、上杉軍は静に行動を起した。兵は物言わず馬は舌を縛して嘶《いなな》くを得ざらしめた。全軍粛々妻女山をくだり其状長蛇の山を出づるが如くして狗《いぬ》ヶ瀬をわたった。時正に深更夜色沈々只鳴るものは鎧の草摺のかすかな音のみである。只、甘粕近江守は妻女山の北赤坂山に止り、後押として敵を警戒しつつ、十二ヶ瀬を渡って小森附近に止った。一方妻女山には陣中の篝火《かがりび》は平常通りにやかれつづけ、紙の擬旗が夜空に、無数にひるがえっていた。
かくて十日の午前二時半頃越軍は犀川の南方に東面して陣取り、剛勇無比の柿崎和泉守を先陣に大将謙信は毘字旗と日の丸の旗を陣頭に押し立てて第二陣に控えて、決戦の朝《あした》を待った。ただ小荷駄の直江大和守は北国街道を北進して犀川を小市《こいち》の渡《わたし》にて渡り善光寺へと退却せしめた。甘粕隊は遠く南方小森に於て妻女山から来るべき敵に備えた。時に川中島は前夜細雨があったためか、一寸先もわからぬ濃霧である。
『川中島五度合戦記』に「越後陣所ヨリ草刈ドモ二三十人未明ヨリ出デカケマハリ云々」とあるは、天文二十三年のこととして出ているが、それは間違いであるから、おそらくこの時のことであろう。越後の軍より草刈の農夫に化けた斥候が、川中島を右に左にはい廻ったのであろう。謙信は斥候を放って敵の旗本軍の行動をさぐらせ、甲軍が広瀬を渡ったことを知り、奇襲して敵を粉砕し、旗本を押し包んで、信玄を討ち取ろうと、水沢の方向にむかって静かに前進をおこした。戦わずして謙信は十二分の勝利である。
妻女山に向った甲軍は、地理に明かな、高坂弾正が先導で、月の西山に没する頃には海津を発し倉科の山越しに妻女山へむかった。しかしこれは山間の小径《しょうけい》で秋草が道をおおっているので行軍に難渋した。しかも、一万二千の大軍であるから夜明け前に妻女山に到着する筈であったのが、はるかに遅れた。
一方信玄の旗本は、剛勇の山県昌景が先鋒となり、十日|寅《とら》の刻(午前四時)に海津城を出で、広瀬に於て千曲川を渡り、山県は神明附近に西面して陣し、左水沢には武田信繁その左には穴山伊豆が陣取り、又右には両角《もろずみ》豊後内藤修理が田中附近に陣した。信玄は八幡社の東方附近に、他の諸隊はこの左右前後に陣す。この位置は今|三太刀《みたち》七太刀と称せられていると云う。信玄の傍には諏訪神号旗と孫子の旗がひるがえっている。時に濃霧(川中島の名物)が深く立ちこめて一寸先もみえない。甲軍は越軍が川中島に来るのは辰《たつ》の刻(午前八時)とかんがえ、厳然たる隊形は整えずにいたらしい。ただ信玄は腰をかけたまま妻女山をにらんで何等かの変化を期待している。何ぞ知らんや上杉軍は半里の前方に展開しているのであった。
既に卯の刻(午前六時)となったし、濃霧は次第にはれてきた。不図《ふと》前方をみればこは如何に、越の大軍が潮《うしお》の如く我に向って前進中である。正に「暁に見る千兵の大牙を擁するを」だ。「武田の諸勢も之を見て大に仰天し、こは何時の間に斯《かか》る大軍が此の地に来れる。天よりは降りけん地よりは湧《わ》き出でけん、誠に天魔の所行なりとさしもに雄《はや》る武田の勇将猛士も恐怖の色を顕《あらわ》し諸軍浮足立つてぞ見えたりける」(『甲陽軍記』)
謙信は、一万三千の内旭山城に五
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