筑摩、安曇《あずみ》郡、深志《ふかし》城〈松本〉)
(4)[#「(4)」は縦中横]木曾義康(木曾谷、福島城〈福島〉)
(5)[#「(5)」は縦中横]村上義清(小県《ちいさがた》、埴科《はにしな》、更科、水内《みちの》、高井諸郡、葛尾《くずお》城)
[#ここで字下げ終わり]
信玄は、天文九年から、天文十七年にかけて、これらの諸豪を順次に攻めて、これを滅し、その中《うち》最も強大なる村上義清を駆逐して、遂に謙信にその窮状を訴えしむるに至った。
川中島合戦は、村上義清を救うための義戦と云われている。しかし北信にまで武田の手が延びた以上、越後何ぞ安からんである。信濃から春日山城までは、わずか十数里である。常に武田の脅威を受けていては、謙信上洛の志も関東経営の雄志も、伸すに由ないのである。今北信の諸豪が泣きついて来たのこそ、又とない機会である。義戦を説《とな》えて、武田を贋懲《ようちょう》すべき時が到来したのである。
されば、川中島出陣に際して、越後岩船の色部《しきぶ》勝長に送った書状にも、
「(前略)雪中御大儀たるべしと雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣|待入《まちいり》候。信州味方中滅亡の上は、当国の備《そなえ》安からず候条」
と云っている。義戦であると共に、自衛戦でもあった。
信玄も亦、上洛の志がある。それには、後顧の憂を断つために、謙信に大打撃を与うることが、肝要である。されば、北条氏康、今川義元と婚を通じ、南方の憂を絶ち、専《もっぱ》ら北方経営に当らんとした。
そして、謙信が長駆小田原を囲んだとき、信玄は信濃に入って、策動したのである。
謙信は、永禄四年春小田原攻囲中、信玄動くと聴き、今度こそは信玄と有無の一戦すべしとして、越後に馳せ帰ったのである。二年越の関東滞陣で兵馬が疲れているにも拘らず、直ちに陣触《じんぶれ》に及び、姉婿長尾|政景《まさかげ》に一万の兵を托して、春日山城を守らしめ、自分は一万三千の兵を率いて、一は北国街道から大田切、小田切の嶮を越えて善光寺に出で、一は間道倉富峠から飯山に出た。
「今度《このたび》信州の御働きは先年に超越し、御遺恨益々深かりければこの一戦に国家の安否をつけるべきなり云々」とあるから、謙信が覚悟のほども察すべきである。
時正に秋も半《なかば》、軍旅の好期である。飯山に出でた謙信は、善光寺にも止《とどま》らず、大胆不
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