にみちて》秋気清《しゅうききよし》
数行過雁月三更《すうこうのかがんつきさんこう》
越山併得能州景《えつざんあわせえたりのうしゅうのけい》
遮莫家郷《さもあらばあれかきょう》|憶[#二]遠征[#一]《えんせいをおもう》
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の詩があり、歌には、
[#天から3字下げ]ものゝふのよろひの袖を片しきし枕にちかき初雁《はつかり》の声
などある。現代の政治家や実業家の歌などよりは、はるかにうまい。
また兵学に精通し、敬神家で、槍は一代に冠絶し、春日《かすが》の名槍を自在に繰り、剣をよくして、備前|長船《おさふね》小豆長光二尺四寸五分の大刀を打ち振うのであるから、真に好個の武将である。
信玄が重厚精強であれば、謙信は尖鋭果断のかんしゃく持である。
太田|資正《かずまさ》謙信を評して、「謙信公のお人となりを見申すに十にして八つは大賢人、その二つは大悪人ならん。怒りに乗じて為したまうこと、多くは僻事《ひがごと》なり。これその悪《あ》しき所なり。勇猛にして無欲清浄にして器量大、廉直にして隠すところなく、明敏にして能く察し、慈恵にして下《しも》を育す、好みて忠諫《ちゅうかん》を容るる等、その善き所なり」と云った。
謙信は、川中島の一騎討などから考えるとどんな偉丈夫かと思われるが、「輝虎、体《たい》短小にして左脛《ひだりすね》に気腫《きしゅ》あり、攣筋《れんきん》なり」と云うから、小男で少しびっこと云うわけであるから、その烈々たる気魄が、短躯に溢れて、人を威圧した有様が想像される。
永禄四年川中島合戦には、謙信は上杉憲政から、一字を貰って、政虎と云っていたのである。その翌年将軍義輝から、一字貰って、輝虎と改めたのである。入道して、謙信と云ったのは、もっと前である。
謙信|會《か》つて曰く、「信玄は常に後途の勝を考え七里進むところは五里進み六分の勝をこよなき勝として七八分にはせざるよし。されど我は後途の勝を考えず、ただ弓矢の正しきによって戦うばかりぞ」と云っている。これに依って、この二将の弓矢の取り方が分ると思う。
元来、信濃には五人の豪族が割拠していた。次ぎの通りだ。
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(1)[#「(1)」は縦中横]平賀源心(佐久郡。平賀城)
(2)[#「(2)」は縦中横]諏訪頼茂(諏訪郡。上原城)
(3)[#「(3)」は縦中横]小笠原長時(
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