をまけば》山色《さんしょく》|悩[#二]吟身[#一]《ぎんしんをなやます》
孱願亦《せんがんまた》|有[#二]娥眉趣[#一]《がびのおもむきあり》
一笑靄然《いっしょうあいぜん》|如[#二]美人[#一]《びじんのごとし》
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歌に、
[#天から3字下げ]さみだれに庭のやり水瀬を深み浅茅《あさじ》がすゑは波よするなり
[#天から3字下げ]立ち並ぶかひこそなけれ桜花《さくらばな》松に千歳《ちとせ》の色はならはで
詩の巧拙は自分には分らないが、歌は武将としては上乗の部であろう。
又|経書《けいしょ》兵書に通じ、『孫子』を愛読して、その軍旗に『孫子』軍争編の妙語「|疾如[#レ]風《はやきことかぜのごとく》|徐如[#レ]林《しずかなることはやしのごとし》|侵略如[#レ]火《しんりゃくすることひのごとく》|不[#レ]動如[#レ]山《うごかざることやまのごとし》」を二行に書かせて、川中島戦役後は、大将旗として牙営《がえい》に翻していた。その外、諏訪明神を信仰し、「諏訪|南宮《なんぐう》上下大明神」と一行に大書した旗も用いていた。
上杉謙信は、元、長尾氏で平氏である。元来相州長尾の荘に居たので、長尾氏と称した。先祖が、関東から上杉氏に随従して越後に来り、その重臣となり、上杉氏衰うるに及んで勢力を得、謙信の父|為景《ためかげ》に及んで国内を圧した。為景死し、兄晴景継いだが、病弱で国内の群雄すら圧服することが出来ないので、弟謙信わずかに十四歳にして戦陣に出で、十九歳にして長尾家を相続し、春日山城に拠《よ》り国内を鎮定し、威名を振った。
しかし、謙信が上杉氏と称したのは、越後の上杉氏の嗣となったのではなくして、関東管領山ノ内上杉家を継いだのである。即ち三十二歳の時、山ノ内|憲政《のりまさ》から頼まれて、関東管領職を譲られ、上杉氏と称したのである。
その責任上、永禄三年兵を関東平野に進め、関東の諸大名を威服し、永禄四年に北条|氏康《うじやす》を小田原城に囲んで、その城濠|蓮池《はすいけ》のほとりで、馬から降り、城兵が鉄砲で狙《ねら》い打つにも拘らず、悠々閑々として牀几《しょうぎ》に腰かけ、お茶を三杯まで飲んだ。
謙信も亦、信玄に劣らぬ文武兼備の大将で、文芸の趣昧ふかく、詩にはおなじみの、
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|霜満[#二]軍営[#一]《しもはぐんえい
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