敵にも敵の堅城たる海津城の後方をグルリと廻り、海津城の西方十八町にある妻女山(西条山ともかく)に向った。北国街道の一軍は、善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を南進し、海津城の前面を悠々通って妻女山に到着した。
 甲の名将|高坂《こうさか》弾正昌信の守る堅城の前後を会釈もなく通って、敵地深く侵入して妻女山に占拠したわけである。正に大胆不敵の振舞で敵も味方も驚いた。しかし妻女山たる、巧みに海津城の防禦正面を避け、その側背を脅かしている好位置で、戦術上地形判断の妙を極めたものであるらしい。凡将ならば千曲川の左岸に陣取って、海津城にかかって行ったに違いないのである。
『越後軍紀』に「信玄西条山へ寄せて来て攻むるときは、彼が陣形常々の守《まもり》を失ふべし、その時無二の一戦を遂げて勝負すべし」とある。
 八月十六日妻女山に着いた謙信は、日頃尊信する毘沙門天《びしゃもんてん》の毘の一字を書いた旗と竜の一字をかいた旗とを秋風に翻して、海津の高坂昌信を威圧したわけである。竜字の旗は突撃に用いられ「みだれ懸りの竜の旗」と云われた。
 海津城の高坂昌信は、狼烟《のろし》に依って急を甲府に伝え、別に騎馬の使を立てて、馬を替えつつ急報した。自らは、城濠を深くして、死守の決心をなした。
 予《かね》て、かくあるべしと待ちかねていた信玄は、その報をきくと南信の諸将に軍勢を催促しつつ、十八日に甲府を立ち、二十二日には上田に到着している。その兵を用うる正に「疾きこと風の如し」である。
 そして、上田に於て、軍議をこらして、川中島に兵を進めるや、これまた謙信に劣らざる大胆さで、謙信の陣所たる妻女山の西方を素通りして、その西北方の茶臼山に陣した。
 謙信が、海津城を尻目にかけ、わざと敵中深く入ると、信玄はまたそれを尻目にかけて、敵の退路を断ってしまったわけである。
 実に痛快極まる両将の応酬ぶりである。
 かくて、謙信は、自ら好んで嚢《ふくろ》の鼠となったようなものである。信玄大いに喜び、斥候を放って、妻女山の陣営を窺わせると、小鼓《こつづみ》を打って謡曲『八島』を謡っている。信玄案に相違して、諸方に斥候を放つと、旭山城に謙信の伏兵あるを知り、茶臼山の陣を撤して海津城に入った。自分の方が、妻女山と旭山城との敵軍に挾撃される事を心配したのかも知れない。
 かくて、信玄は海津城に謙信は妻女
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