う額面であった。雄吉は、妙な不安と興奮とをもって、青木の手中にあるその小切手を見つめた。
「どうしたのだ、その金は?」と、雄吉の声は、かなり上ずっていた。
「どうもしないさ」と、青木はいつものように、冷静であった。「矢部さんがね、僕の窮状に同情してくれて、翻訳の口を探してくれたのさ。かなり大きい翻訳なのだ、僕が困るといったものだから、これだけ前金を融通してくれたのだ、はははは」と、彼はこともなげに笑った。矢部さんというのは、学校の先輩で、もうすでに文壇にも十分に認められている新進の哲学者であって、青木は二、三度、この人を訪問したことがある。雄吉は、青木に向いてきた幸運を、自分のことのように欣《よろこ》んだ。それと同時に、まだ学生でありながら、そうした大きい翻訳に従事する青木を、賛嘆せずにはおられなかった。
「それで、君に頼みたいのだがね、この小切手を、一つ貰ってきてくれないか。○○銀行支店といえば、そう遠くないのだから、四時までには行けるだろう。裏へ署名して判を押すのだが、僕は判を持っていないから、君の名でやってくれないか」
雄吉が、青木の依頼を唯々諾々《いいだくだく》としてきいたの
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