真田幸村
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)字《あざな》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)舎弟|典厩《てんきゅう》
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[#7字下げ]真田対徳川[#「真田対徳川」は中見出し]
真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟|典厩《てんきゅう》と同じ名にて字《あざな》も同じ」と云っているから信繁《のぶしげ》と云ったことは、確《たしか》である。
『真田家古老物語』の著者桃井友直は「按ずるに初は、信繁と称し、中頃幸重、後に信賀《のぶよし》と称せられしものなり」と云っている。
大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、信仍《のぶより》と書いている。これで見ると、徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。しかし、とにかく幸村と云う名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろう。
むかし、姓名判断などは、なかったのであるが、幸村ほど智才|秀《すぐ》れしものは時に際し事に触れて、いろいろ名前を替えたのだろう。
真田は、信濃の名族|海野《うんの》小太郎の末胤《まついん》で、相当な名族で、祖父の幸隆の時武田に仕えたが、この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。
一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重っているのである。
上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後、真田が自力を以て、切り取った土地である。
武田亡びた後、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代りお前には上田をやると云った。
所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何にも徳川から貰う筋合はない。その上、沼田はわが鋒《ほこ》を以て、取った土地である。故なく人に与えんこと叶《かな》わずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使を出して、属すべき由云い送った。天正十三年の事である。
家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせた。
それを、昌幸が相当な軍略を以て、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉|景勝《かげかつ》に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。
この競合《せりあい》が、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。
その後、家康が秀吉と和睦《わぼく》したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。
家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にて有間敷《あるまじき》也。使の聞き誤りならん。急き帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。
徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想うべしである。
そこで、家康が秀吉に相談すると、
「真田|尤《もっとも》也、中務《なかつかさ》が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとある。
家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房の縁に引かれて、後年父や弟と別れて、家康に随《したが》ったわけである。
所が、天正十六年になって、秀吉が北条|氏政《うじまさ》を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年徳川殿と和平の時、貰う筈であったが、真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると云った。此の時の北条の使が板部岡江雪斎と云う男だ。
北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。
秀吉即ち、上州に於ける真田領地の中《うち》沼田を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残りの三分の一を名胡桃《なぐるみ》城と共に真田領とした。そして、沼田に対する換地は、徳川から真田に与えさせることにした。
江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった猪俣範直《いのまたのりなお》と云う武士が、我無しゃらで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌幸が、それを太閣に訴えた。太閣は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心したのである。
昌幸から云えば、自分の面目を立ててくれるために、北条征伐と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。
これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる坂部岡江雪斎を捕え、手枷《てかせ》足枷をして、面前にひき出し、「汝の違言に依って、北条家は亡《ほろ》んだではないか。主家を亡して快きか」と、罵《のの》しった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しも怯《わる》びれず、「北条家に於て、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士時務を知らず、名胡桃を取りしは、北条家の運の尽くる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、半歳《はんさい》を支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。
秀吉その答を壮とし「汝は京都に送り磔《はりつけ》にしようと思っていたが」と云って許してやった。その時丁度奥州からやって来ていた政宗を饗応するとき江雪斎も陪席しているから、その堂々たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。
とにかく、最初徳川家と戦ったとき、秀吉の後援を得ている。わが領地の名胡桃を北条氏が取ったと云う事から、秀吉が北条征伐を起してくれたのだから、昌幸は秀吉の意気に感じていたに違いない。
その後、昌幸は秀吉に忠誠を表するため、幸村を人質に差し出している。だから、幸村は秀吉の身辺に在りて、相当好遇されたに違いない。
[#7字下げ]関ヶ原役の真田[#「関ヶ原役の真田」は中見出し]
関ヶ原の時、真田父子三人家康に従って、会津へ向う途中、石田三成からの使者が来た。昌幸、信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。
昌幸は、勿論大阪方に味方せんと云った。兄の信幸、内府は雄略百万の人に越えたる人なれば、討滅《うちほろぼ》さるべき人に非ず、徳川方に味方するに如《し》かずと云う。
茲《ここ》で、物の本に依ると、信幸、幸村の二人が激論した。佐々木味津三君の大衆小説に、その激論の情景から始まっているのがあったと記憶する。
信幸、我本多に親しければ石田に与《くみ》しがたしと云うと、幸村、女房の縁に引かれ父に弓引くようやあると云う。
信幸、石田に与せば必ず敗けるべし、その時党与の人々必ず戮《りく》を受けん。我々父と弟との危きを助けて家の滅びざらんことを計るべしと。幸村曰く、西軍敗れなば父も我も戦場の土とならん。何ぞ兄上の助けを借らん。天正十三年以来豊家の恩顧深し、石田に味方するこそ当然である。家も人も滅ぶべく死すべき時到らば、潔《いさぎよ》く振舞うこそよけれ、何条汚く生き延びることを計らんやと。信幸怒って将《まさ》に幸村を斬らんとした。幸村は、首を刎《は》ねることは許されよ、幸村の命は豊家のために失い申さん、志なればと云った。昌幸仲裁して、兄弟の争い各々その理あり、石田が今度のこと、必ずしも秀頼の為の忠にあらずと、信幸は思えるならん。我は、幸村と思う所等しければ、幸村と共に引き返すべし。信幸は、心任せにせよと云って別れたと云う。
この会談の場所は、佐野天妙であるとも云い、犬伏《いぬぶし》と云う所だと云う説もある。此の兄弟の激論は、恐らく後人の想像であろうと思う。信幸も幸村も、既に三十を越して居り、深謀遠慮の良将であるから、そんな激論をするわけはない。まして、父と同意見の弟に斬りかけようとするわけはない。必ず、しんみりとした深刻な相談であったに違いない。
後年の我々が知っているように、石田方がはっきり敗れるとは分っていないのだから、父子兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿《じょせい》である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。
そして、昌幸の肚の中では、真田が東西両軍に別れていればいずれか真田の血脈は残ると云う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互に救い合おうと云うような事も、暗々裡には黙契があったかも知れない。父子兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろう。
真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには、上策であった。相場で云えば売買両方の玉《ぎょく》を出して置く両建と云ったようなものである。しかし、両建と云うのは、大勝する所以《ゆえん》ではない。真田父子三人家康に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれただろう。信幸一人では、やっと、十何万石の大名として残った。
しかし、関ヶ原で跡方もなく亡んだ諸侯に比ぶれば、いくらかましかも知れない。
信幸、家康の許へ行くと、家康喜んで、安房守が片手を折りつる心地するよ、軍《いくさ》に勝ちたくば信州をやる証《しるし》ぞと云って刀の下緒《さげお》のはしを切って呉れた。
昌幸と幸村は、信州へ引き返す途中沼田へ立ち寄ろうとした。沼田城は、信幸の居城で、信幸の妻たる例の本多忠勝の娘が、留守を守っていたが、昌幸が入城せんとすると曰く、既に父子|仇《あだ》となりて引き分れ候上は、たとい父にておわし候とも城に入れんこと思いも寄らずと云って、門を閉ざし女房共に武装させて、厩《うまや》にいた葦毛《あしげ》の馬を、玄関につながした。昌幸感心して、日本一と世に云える本多中務の娘なりけるよ。弓取の妻は、かくてこそあるべけれと云って、寄らずに上田へ帰った。本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役《えき》、たった五百騎で、秀吉が数万の大軍を牽制して、秀吉を感嘆させた男である。蜻蛉《とんぼ》切り長槍を取って武功随一の男である。ある時、忠勝子息の忠朝と、居城桑名城の濠《ほり》に船を浮べ、子息忠朝に、櫂《かい》であの葦をないで見よと云った。忠朝も、強力《ごうりき》無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、葦が折れた。忠勝見て、当世の若者は手ぬるし、我にかせと、自身櫂を持って横に払うと、葦が切れたと云う。そんな事が可能かどうか分らぬが、とにかく秀吉に忠信の冑《かぶと》を受け継ぐものは、忠勝の外にないと云われたり、関東の本多忠勝、関西の立花宗茂と比べられたりした典型的の武人である。
昌幸が、上田城を守って、東山道を上る秀忠の大軍を停滞させて、到頭関ヶ原に間に合わせなかった話は、歴史的にも有名である。
関ヶ原役に西軍が勝って諭功行賞が行われたならば、昌幸は殊勲第一であったであろう。石田三成が約束したように、信州に旧主武田の故地なる甲州を添え、それに沼田のある上州を加えて、三ヶ国位は貰えたであろう。
真田安房守昌幸は戦国時代に於ても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉隆、小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置と境遇とに依って、家康、元就、政宗位の仕事は出来たかも知れない男の一人である。その上武威|赫々《かくかく》たる信玄の遺臣として、その時代に畏敬されていたのであろう。大阪陣の時、幸村の奮戦振を聞いた家康が、「父安房守に劣るまじく」と云って賞めているのから考えても、昌幸の人物が窺われる。所領は少かったが、家康などは可なりうるさがっていたに違いない。
秀忠軍が、上田を囲んだとき
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