か程にも踰えさせよ。一所に集めて討取らんには大いに快し」とうそぶいた。
軍に対して、既に成算のちゃんと立っている軍師らしい落着ぶりである。
さて、夕炊《ゆうげ》も終って後、幸村|徐《おもむ》ろに「この陣所は戦いに便なし、いざ敵近く寄らん」と言って、一万五千余の兵を粛々と押出した。その夜は道明寺表に陣取った。
明れば六日、早旦、野村|辺《あたり》に至ると、既に渡辺内蔵助|糺《ただす》が水野|勝成《かつなり》と戦端を開いていた。
相当の力戦で、糺は既に身に深手を負っていた。幸村の軍|来《きた》ると分ると、糺は使を遣わして「只今の迫合に創《きず》を蒙りて復《また》戦うこと成り難し。然る故、貴殿の蒐引《かけひき》に妨げならんと存じ人衆を脇に引取候。かくして横を討たんずる勢いを見せて控え候。これ貴殿の一助たるべきか」と言って来た。
幸村、喜んで「御働きの程、目を愕《おどろ》かしたり。敵はこれよりわれ等が受取ったり」と言って、軍を進めた。
水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝等の連合軍であった。幸村|愈《いよいよ》現われると聞き、政宗の兵、一度に掛り来る。
ここで、野村という所の地形を言っておくと、前後が岡になっていて、その中間十町ばかりが低地であり、左右|田疇《でんちゅう》に連っている。
幸村の兵が、今しも、この岡を半ばまで押上げたと思うと、政宗の騎馬鉄砲八百挺が、一度に打立てた。
この騎馬鉄砲は、政宗御自慢のものである。
仙台といえば、聞えた名馬の産地。その駿足に、伊達家の士の二男三男の壮力の者を乗せ、馬上射撃を一斉に試みさせる。打立てられて敵の備の乱れた所を、煙の下より直ちに乗込んで、馬蹄に蹴散らすという、いかにも、東国の兵らしい荒々しき戦法である。
この猛撃にさすがの幸村の兵も弾丸に傷き、死する者も相当あった。
然し、幸村は「爰《ここ》を辛抱せよ。片足も引かば全く滅ぶべし」と、先鋒に馳来って下知した。一同、その辺りの松原を楯として、平伏《ひれふ》したまま、退く者はなかった。
始め、幸村は暑熱に兵の弱るのを恐れて、冑も附けさせず、鎗も持たせなかった。かくて、敵軍十町ばかりになるに及んで、使番を以て、「冑を着よ」と命じた。更に、二町ばかりになるに及んで、使番をして「鎗を取れ」と命じた。
これが、兵の心の上に非常な効果を招いた。敵前間近く冑の忍《しのび》の緒を締め、鎗をしごいて立った兵等の勇気は百倍した。
さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、新附仮合の徒である幸村の兵に一歩も退く者のなかったのはそのためであろう。
幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、烟も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声に下知した。声の下より、皆起って突かかり、瞬《またた》く間に、政宗の先手《さきて》を七八町ほど退かしめた。政宗の先手には、かの片倉小十郎、石母田大膳等が加っていたが、「敵は小勢ぞ、引くるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。
これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。
新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。
幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。
そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切込まんと約せしに時刻おそくなり、後藤を討死させし故、謀《はかりごと》空しくなり申候。これも秀頼公御運の尽きぬるところか」と。
この六日の朝は、霧深くして、夜の明《あけ》も分らなかったので幸村の出陣が遅れたのである。若《も》し、そんな支障がなかったら、関東軍は、幸村等に、どれ程深く切り込まれていたか分らない。
勝永も涙を面に泛《うか》べ「さり乍《なが》ら、今日の御働き、大軍に打勝れた武勇の有様、古《いにしえ》の名将にもまさりたり」と称揚した。
幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して取《とっ》たる首を鞍の四方手に附け、相当の手傷を負っていたが、流るる血を拭いもせずに、そこへ馳せて来た。
勝永これを見て、更に「あわれ父が子なり」と称《たた》えたという。
こうして、五月六日の戦は、真田父子の水際《みずぎわ》立った奮戦に終始した。
[#7字下げ]真田の棄旗[#「真田の棄旗」は中見出し]
五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田|修理亮《しゅりのすけ》光重は能《よ》く河内の地に通じたるを以て、先陣として二千余騎を率い大和川へ差かかった。
その後から、越前勢の大軍が粛々と進んだ。
が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、畔《ほとり》に佇《たたず》むもの多かった。大将修理亮は「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛込んで渡った。
幸村は、夙《つと》にこの事あるを予期して、河底に鉄鎖を沈め置き、多数が河の半ばまで渡るを待って、これを一斉に捲き上げたので、先陣の三百余騎、見る見る鎖に捲き倒されて、河中に倒れた。
折柄、五月雨《さみだれ》の水勢|烈《はげ》しきに、容赦なく押流された。
茲《ここ》に最も哀れをとどめたのは、大将吉田修理亮である。彼は、真先に飛込んで、間もなく馬の足を鎖に捲きたおされ、ドウと許り、真倒《まっさかさ》まに河中に落ちた。が、大兵肥満の上に鎧を着ていたので、どうにもならず、翌日の暮方、天満橋の辺に、水死体となって上った。
また、同じ刻限、天王寺表の嚮導《きょうどう》、石川伊豆守、宮本丹後守等三百余人が平野の南門に着した。見ると、そこの陣屋の門が、ぴったり閉めてあって入りようがない。廻って東門を覗《うかが》ったが、同様である。内には、六文銭の旗三四|旒《りゅう》、朝風に吹靡《ふきなび》いて整々としていた。
「さては、此処がかの真田が固めの場所か。迂濶に手を出す可らず」その上、越前勢も、大和川の失敗で、中々到着するけしきもないので石川等は、東の河岸《かし》に控えて様子を覗っていた。
夜がほのぼのと明け始めた。そこで東の門を覗ってみると、内は森閑として、人の気配もなかった。何のことだ、と言い合いつつ、東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手がやっとのことで押し寄せて来た。
大和川に流された吉田修理亮に代って、本多飛騨守、松平壱岐守等以下の二千余騎である。
が、石川宮木等は、これを真田勢の来襲と思い違い、凄まじい同志討がここに始まった。
石川宮木等が葵《あおい》の紋に気付いた時は、既に手の下しようのない烈しい戦いになっていた。ようやくのことで、彼等が、胄を取り、大地にひざまずいたので、越前勢も鎮《しず》まった。
しかし、こんな不始末が大御所に知れてはどんなことになるかも知れない、とあって、彼等は、その場を繕うために、雑兵の首十三ほどを切取り、そこにあった真田の旗を証拠として附けて、家康に差出した。
家康いたく喜ばれ「真田ほどの者が旗を棄てたるはよくよくのことよ」と御褒めになり、その旗を家宝にせよとて、傍《かたわら》の尾張義直卿に進ぜられた。
義直卿は、おし頂いてその旗をよく見たが、顔色変り「これは家宝にはなりませぬ」と言う。
家康もまた、よく見れば、旗の隅に細字で、小さく「棄旗」と書いてあった。「実に武略の人よ」と家康は、讃嘆したとあるが、これは些《いささ》かテレ隠しであったろう。
寄手の軍が、こんな朱敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から石之華《いしのはな》表の西迄三隊に備え、旗馬印を竜粧《りゅうしょう》に押立てていた。
殺気天を衝き、黒雲の巻上るが如し、という概があった。
陽《ひ》も上るに及んで、愈々合戦の開かれんとする時、幸村は一子大助を呼んで、「汝は城に還りて、君が御生害《ごしょうがい》を見届け後果つべし」と言った。が、大助は「そのことは譜代の近習にまかせて置けばよいではないか」と、仲々聴かなかった。そして、「あく迄父の最期を見届けたい」と言うのをなだめ賺《すか》して、やっと城中に帰らせた。
幸村は、大助の背姿《うしろすがた》を見、「昨日|誉田《ほんだ》にて痛手を負いしが、よわる体《てい》も見えず、あの分なら最後に人にも笑われじ、心安し」と言って、涙したという。
時人、この別れを桜井駅に比している。幸村は、なぜ、大助を城に返して、秀頼の最後を見届けさせたか。その心の底には、もし秀頼が助命されるような事があらば、大助をも一度は世に出したいと云う親心が、うごいていたと思う。前に書いた原隼人との会合の時にも「伜に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。こう云う親心が、うごいている点こそ、却って幸村の人格のゆかしさを偲《しの》ばしめると思う。
[#7字下げ]幸村の最期[#「幸村の最期」は中見出し]
幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。
幸村は、屡々《しばしば》越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間の竜《たつ》の丸に備えて士卒に、兵糧を使わせた。
幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石|掃部助全登《かもんのすけなりとよ》をして今宮表より阿部野へ廻らせて、大御所の本陣を後《うしろ》より衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて着々と運ばなかった。
そこで、幸村は毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。秀頼公が御旗《おんはた》御馬印を、玉造口まで押出させ、寄手の勢力を割いて明石が軍を目的地に進ましめることを計った。真田の穴山小助、毛利の古林一平次等が、その緊急の使者に城中へ走った。
この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使榊原飛騨守である。飛騨守は「今こそ攻めるべし、遅るれば必ず後より追撃されん」と忠直卿に言上した。
忠直卿早速、舎弟伊予守忠昌、出羽守直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以て押し寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、待味方《まちみかた》の備をもって、これに当っていた。
すると、意外にも、本多忠政、松平忠明等、渡辺大谷などの備を遮二無二切崩して真田が陣へ駆け込んで来た。また水野勝成等も、昨日の敗を報いんものと、勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た。幸村は、遂に三方から敵を受けたのである。
「最早これまでなり」と意を決して、冑の忍の緒を増花形《ますはながた》に結び――これは討死の時の結びようである――馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った緋縮緬《ひぢりめん》の陣羽織をさっと着流して、金の采配をおっ取って敵に向ったと言う。
三方の寄手合せて三万五千人、真田勢僅かに二千余人、しかも、寄手の戦績はかばかしく上らないので、家康は気を揉《も》んで、稲富喜三郎、田付《たづけ》兵庫等をして鉄砲の者を召連れて、越前勢の傍より真田勢を釣瓶打《つるべうち》にすべしと命じた位である。
真田勢の死闘の程思うべしである。
幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の首摺《くびずり》の間に中《あた》ったので、既に落馬せんとして、鞍の前輪に取付き差うつむくところを、忠直卿の家士西尾|仁右衛門《にえもん》が鎗で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。
西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にその胄が、嘗《かつ》て原隼人に話したところのものであり、口を開いてみると、前歯が二本|闕《か》けていたので、正しく幸村が首級と分ったわけである。
西尾は才覚なき士で、その時太刀を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘四郎が、これを得て帰った。
幸村の首級と太刀とは、後に兄の伊豆守信幸に賜ったので、信幸は二男内記をして首級は高野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。
この役に、関西方に附いた真田家の一族は、尽《ことごと》く戦死した。甥幸綱、幸堯《ゆきたか》等は幸村と同じ戦場で斃《たお》れた。
一子大助は、城中において、秀頼公の最期間近く自刃して果て、父
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