対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿《じょせい》である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。
そして、昌幸の肚の中では、真田が東西両軍に別れていればいずれか真田の血脈は残ると云う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互に救い合おうと云うような事も、暗々裡には黙契があったかも知れない。父子兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろう。
真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには、上策であった。相場で云えば売買両方の玉《ぎょく》を出して置く両建と云ったようなものである。しかし、両建と云うのは、大勝する所以《ゆえん》ではない。真田父子三人家康に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれただろう。信幸一人では、やっと、十何万石の大名として残った。
しかし、関ヶ原で跡方もなく亡んだ諸侯に比ぶれば、いくらかましかも知れない。
信幸、家康の許へ行くと、家康喜んで、安房守が片手を折りつる心地するよ、軍《いくさ》に勝ちたくば信州をやる証《しるし》ぞと
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