てくれるために、北条征伐と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。
 これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる坂部岡江雪斎を捕え、手枷《てかせ》足枷をして、面前にひき出し、「汝の違言に依って、北条家は亡《ほろ》んだではないか。主家を亡して快きか」と、罵《のの》しった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しも怯《わる》びれず、「北条家に於て、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士時務を知らず、名胡桃を取りしは、北条家の運の尽くる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、半歳《はんさい》を支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。
 秀吉その答を壮とし「汝は京都に送り磔《はりつけ》にしようと思っていたが」と云って許してやった。その時丁度奥州からやって来ていた政宗を饗応するとき江雪斎も陪席しているから、その堂々たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。
 とにかく、最初徳川家と戦ったとき、秀吉の後援を得ている。わが領
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