けである。
 籠城の準備として、大阪城へ大軍の迫る道は、南より外ないので、此方面に砦《とりで》を築く事になった。玉造口を隔てて、一つの笹山あり、砦を築くには屈竟の所なので、構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつとはなしに、此出丸を堅固に守らん人は、真田の外なしと云い合いて、いつの間にか、真田丸と云う名が、附いてしまった。
 城中詮議の結果、守将たることを命ぜられた。しかし幸村は、譜代の部下七十余人しかないので辞退したが、後藤が、「人夫ども迄が、真田丸と云っている以上、御引受けないは本意ない事ではないか」と云ったので、「然らば、とてもの事に縄張りも自分にやらせてくれ」と云って引き受けた。
 真田即ち昌幸伝授の秘法に依り、出丸を築いた。真田が出丸の曲尺《かねざし》とて兵家の秘法になれりと『慶元記参考』にある。
 真田は冬の陣中自分に附けられた三千人を率いて此の危険な小砦《しょうさい》を守り、数万の大軍を四方に受け、恐るる色がなかった。

[#7字下げ]家康の勧誘[#「家康の勧誘」は中見出し]

 真田丸の砦は、冬の陣中、遂に破られなかった。媾和になってから家康は、幸村を勧誘
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