ろいろの意地が重なっているのである。でないとした所が、今になって武士たるものが、心を動かすべき筈はないのである。
豊臣家譜代の連中が、関東方に附いて城攻に加っているのに、譜代の臣でもない幸村が、断乎《だんこ》大阪方に殉じているなど会心の事ではないか。なお、これは余談だが、大阪方についた譜代の臣の中で片桐且元など殊にいけない。
坪内逍遙博士の『桐一葉』など見ると、且元という人物は極めて深謀遠慮の士で、秀吉亡き後の東西の感情融和に、反間苦肉の策をめぐらしていたように書いてあるが、嘘である。
『駿府記』など見ると、且元、秀頼の勘気に触れて、大阪城退出後、京都二条の家康の陣屋にまかり出で、御前で、藤堂高虎と大阪|攻口《せめぐち》を絵図をもって、謀議したりしている。
また、冬の陣の当初、大阪方が堺に押し寄せた時、且元、手兵を派して、堺を助け、大御所への忠節を見せた、など『本光国師日記』に見えている。
且元のこうした忌《いまわ》しい行動は、当時の心ある大阪の民衆に極度の反感を起さしめた。何某《なにがし》といえる侠客の徒輩が、遂に立って且元を襲い、その兵百人ばかりを殺害したという話がある。
且元、後にこれを家康に訴え、その侠客を制裁してくれと頼んだが、家康は笑って応じなかった。
当時の且元が、大阪びいきの連中に、いかように思われていたかが分るわけである。『桐一葉』に依って且元が忠臣らしく、伝えられるなど、甚だ心外だが、今に歌右衛門でも死ねば、誰も演《や》るものがないからいいようなものの。
[#7字下げ]東西和睦[#「東西和睦」は中見出し]
和平が成立した時、真田は、後藤又兵衛とともに、関東よりの停戦交渉は、全くの謀略なることを力説し、秀頼公の御許容あるべからずと言ったのだが、例によって、大野、渡辺等の容るる所とならなかったわけである。
幸村は、偶々《たまたま》越前少将忠直卿の臣原|隼人貞胤《はやとさだたね》と、互に武田家にありし時代の旧友であったので、一日、彼を招じて、もてなした。
酒盃|数献《すうこん》の後、幸村小鼓を取出し、自らこれを打って、一子大助に曲舞《くせまい》数番舞わせて興を尽した。
この時、幸村申すことに「この度の御和睦も一旦のことなり。終《つい》には弓箭《きゅうせん》に罷成《まかりな》るべくと存ずれば、幸村父子は一両年の内には討死とこそ思い
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