けである。
 籠城の準備として、大阪城へ大軍の迫る道は、南より外ないので、此方面に砦《とりで》を築く事になった。玉造口を隔てて、一つの笹山あり、砦を築くには屈竟の所なので、構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつとはなしに、此出丸を堅固に守らん人は、真田の外なしと云い合いて、いつの間にか、真田丸と云う名が、附いてしまった。
 城中詮議の結果、守将たることを命ぜられた。しかし幸村は、譜代の部下七十余人しかないので辞退したが、後藤が、「人夫ども迄が、真田丸と云っている以上、御引受けないは本意ない事ではないか」と云ったので、「然らば、とてもの事に縄張りも自分にやらせてくれ」と云って引き受けた。
 真田即ち昌幸伝授の秘法に依り、出丸を築いた。真田が出丸の曲尺《かねざし》とて兵家の秘法になれりと『慶元記参考』にある。
 真田は冬の陣中自分に附けられた三千人を率いて此の危険な小砦《しょうさい》を守り、数万の大軍を四方に受け、恐るる色がなかった。

[#7字下げ]家康の勧誘[#「家康の勧誘」は中見出し]

 真田丸の砦は、冬の陣中、遂に破られなかった。媾和になってから家康は、幸村を勧誘せんとし、幸村の叔父隠岐守|信尹《のぶただ》を使として「信州にて三万石をやるから」と言って、味方になることを、勧めさせた。
 幸村は、出丸の外に、叔父信尹を迎えて、絶えて久しい対面をしたが、徳川家に附く事だけはきっぱり断った。
 信尹はやむなく引返して、家康にその由を伝えると、家康は「では信濃一国を宛行《あておこな》わん間|如何《いか》にと重ねて尋ねて参れ」と言った。信尹、再び幸村に対面してかく言うと、「信濃一国は申すに及ばず、天下に天下を添えて賜るとも、秀頼公に背《そむ》きて不義は仕《つかまつ》らじ。重ねてかかる使をせられなば存ずる旨あり」と、断平として言って、追返した。
『常山紀談』の著者などは、この場合、幸村がかくも豊臣家のために義理を立通そうとしたのは、必ずしも、道にかなえり、とは言うべからずと言っている。
「豊臣家は真田数世の君に非ず、若し、君に不背《そむかず》の義を論ぜば、武田家亡びて後世をすてゝ山中にかくれずばいかにかあるべき」
 など評している。
 が、幸村としてみれば、豊臣家には父昌幸以来の恩義があると共に、徳川家に対しては、前に書いておいた如く、矢張り父昌幸以来のい
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