定めたれ」と言って、床の間を指し「あれに見ゆる鹿の抱角《かかえづの》打ったる冑は真田家に伝えたる物とて、父安房守譲り与えて候、重ねての軍《いくさ》には必ず着して打死仕らん。見置きてたまわり候え」と云った。
それから、庭に出て、白河原毛《しろかわらげ》なる馬の逞しきに、六文銭を金もて摺《す》りたる鞍を置かせ、ゆらりと打跨り、五六度乗まわして、原に見せ、「此の次ぎは、城|壊《こわ》れたれば、平場《ひらば》の戦《いくさ》なるべし。われ天王寺表へ乗出し、この馬の息続かん程は、戦って討死せんと思うにつけ、一入《ひとしお》秘蔵のものに候」と言って、馬より下り、それから更らに酒宴を続け、夜半に至って、この旧友たちは、名残を惜しみつつ分れた。
果して、翌年、幸村は、この冑を被りこの馬に乗って、討死した。
また、この和睦の成った時、幸村の築いた真田丸も壊されることになった。
この破壊工事の奉行に、本多|正純《まさずみ》がやって来て、おのれの手で取壊そうとしたので、幸村大いに怒り抗議を申込んだ。
が、正純も中々引退らぬ。
両者が互いにいがみあっている由がやがて家康の耳に入った。すると、家康は「幸村が申条|理《ことわり》也、正純心得違也」と、早速判決を下して、幸村に、自分の手で勝手に取壊すことを許した。
この辺り、家康大に寛仁の度を示して、飽迄《あくまで》幸村の心を関東に惹《ひ》かんものと試みたのかも知れない。が幸村は、全く無頓着に、自分の人夫を使って、地形までも跡方もなく削り取り、昌幸伝授の秘法の跡をとどめなかった。
[#7字下げ]天王寺口の戦[#「天王寺口の戦」は中見出し]
元和《げんな》元年になると東西の和睦は既に破れ関東の大軍、はや伏見まで着すと聞えた。
五月五日、この日、道明寺玉手表には、既に戦始り、幸村の陣取った太子へも、その鬨《とき》の声、筒音など響かせた。
朝、幸村の物見の者、馳帰って、旗三四十本、人衆《にんず》二三万許り、国府越より此方へ踰来《こえきた》り候と告げた。これ伊達政宗の軍兵であった。が、幸村静に、障子に倚《よ》りかかったまま、左あらんとのみ言った。
午後、物見の者、また帰って来て、今朝のと旗の色変りたるもの、人衆二万ほど竜田越に押下り候、と告げた。これ松平忠輝が軍兵であった。幸村|虚睡《そらねむ》りしていたが、目を開き「よしよし、い
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