息を、外《よそ》ながら、貪り求めてゐたのであらう。
 医者が、来たのは夏の夜が、はや白々とあけ初める頃であつた。
 一時間近くもかゝつたために、瑠璃子は、多量の出血のために、昏々として人事不省の裡にあつた。
 内科専門のまだ年若い医者は、覚束ない手付で、瑠璃子の負傷を見た。
 それは、可なり鋭い洋刀《ナイフ》で、右の脇腹を一突き突いたものだつた。傷口は小さかつたが、深さは三寸を越してゐた。
「重傷です。私は応急の手当をしますから、直ぐ東京から、専門の方をお呼び下さい。今のところ生命には、別条ないと思ひますが、然し最も余病を併発し易い個所ですから、何とも申せません。」
 医者の眉は、憂はしげに曇つた。
 いたいけな美奈子には、背負ひ切れないやうな、大切な仕事を、彼女は烈しい悲嘆と驚きとの裡に処理せねばならなかつた。その中で、一番厭だつたのは、医者が去るのと、入れ違ひに入つて来た巡査との応答だつた。
「加害者は、逃げたのですか。」
 美奈子は、何とも答へられなかつた。
「その青木と云ふ学生と、貴女のお母様は何う云ふ御関係があつたのです。」
 美奈子は、何とも答へられなかつた。
「何か兇行をするに就て、最近の動機ともなつたやうな事件がありましたでせうか。」
 美奈子は、何とも答へられなかつた。たゞ、彼女自身、恐ろしい罪の審問を受けてゐるやうに、心が千々に苛なまれた。

        四

 夜は明け放れた。今日も真夏の、明るい太陽が、箱根の山々を輝々として、照し初めた。が、人事不省の裡に眠つてゐる瑠璃子は、昏々として覚めなかつた。生と死の間の懸崖に、彼女の細き命は一縷《いちる》の糸に依つて懸つてゐた。
 その日の二時過ぐる頃、美奈子の打つた急電に依つて、予《かね》て美奈子の傷を治療したことのある外科の泰斗近藤博士が、馳け付けた。が、博士に依つて、あらゆる手当が施された後も、瑠璃子の意識は返つて来なかつた。
 その前後から、烈しい高熱に襲はれ初めた瑠璃子は、取りとめもない囈語《うはごと》を云ひつゞけた。その囈語の中にも、美奈子は、母が直也と呼ぶのを幾度となく聴いた。
 夕暮になつて、瑠璃子の父の老男爵が馳け付けた。瑠璃子の近来の行状を快く思つてはゐなかつた男爵は、その娘と一年近くも会つてゐなかつた。が、死相を帯びながら、瀕死の床に横はつてゐる瑠璃子を見ると、老いた男爵の眼からは、涙が、潸然《さんぜん》としてはふり落ちた。娘のかうした運命が、九分までは自分の責任だと思ふと、娘の額に手をやつた男爵の手は、わな/\顫へずにはゐなかつた。
 美奈子は、母の兄なる光一にも、電報を打つたけれども、恐らく彼は東京を離れてゐたのだらう、夜になつても姿を見せなかつた。
 東京から急を聴いて馳け付けた女中や、執事などで、瑠璃子の床は賑やかに取巻かれた。が、母を――肉親は繋がつてゐなくとも心の内では母とも姉とも思ふ瑠璃子を、失はうとする美奈子の心細さは、時の経つと共に、段々募つて行つた。
 丁度夜の十時に近い頃だつた。母はやゝ安眠に入つたと見え、囈語が、暫らく杜絶えて、いやな静けさが、部屋の裡に、漂つてゐたときだつた。廊下に面した扉《ドア》を、低く、聞えるか聞えないかに、トン/\と打つ音がした。女中が立つてそれを開いたが、直ぐ美奈子の所へ帰つて来た。
「あの、お嬢さま。ホテルの支配人の方が、一寸お目にかゝりたいと申してをります。」
 美奈子は、立ち上つて扉《ドア》の所へ行つた。
「どうか、一寸こちらへ。」
 支配人は、美奈子に廊下へ出ることを求めた。美奈子が、一寸不安な気持に襲はれながら、続いて廊下へ出ると、支配人は声をひそめた。
「お取込みの中を、大変恐れ入りますが、今箱根町から電話がかゝつてゐるのです。実は蘆の湖で今夕水死人の死体が上つたと云ふのですが、それが二十三四の学生風の方で、舟の中に残して置いた数通の遺書で見ると、富士屋ホテルにて、青木、と書いてあつたと云ふのです。」
 そこまで、聴いたとき、美奈子は自分の立つてゐる廊下の床が、ズーツと陥込むやうな感じがしたかと思ふと、支配人が駭いて彼女の右の肩口を捕へてゐた。
「あゝ危い! しつかりして下さい!」
 彼女は、最後の力で、自分のよろめく足を支へた。が、暫らくの間、天井と床とがグル/\廻るやうな気がした。
「いや、お駭《おどろ》かせしてすみません、たゞ青木さんの東京のお処だけが承りたかつたのです。」
 美奈子が、顫へる声で、それに答へると、支配人は幾度も詫びながら、倉卒として去つた。
 もう、美奈子の弱い心は、人生の恐ろしさに、打ち砕かれてしまつてゐた。彼女が部屋へ帰つて来たとき、彼女の顔色は、傷《きずつ》いてゐる瑠璃子のそれと少しも変つてゐなかつた。
 が、丁度その時に、瑠璃子は長い昏睡から覚めてゐた。美奈子の顔を見ると、彼女は懐しげな眸で物を云ひたさうにした。
「お母様! お気が付きましたか。」
 少し明るい気持になりながら、美奈子は母の耳許で叫んだ。
「あゝ、美奈さん。まだ? まだ?」

        五

 消えかゝる灯《ともしび》のやうに、瑠璃子の命は、絶えんとして、又続いた。
 翌日になつて、彼女の熱は段々下つて行つた。傷の痛みも、段々薄らいで行くやうだつた。が、衰弱が、いたましい衰弱が、彼女の凄艶な面《おもて》に、刻一刻深く刻まれて行つた。
 彼女の枕頭に、殆ど附き切つてゐる近藤博士の顔は、それにつれて、憂はしげに曇つて行つた。
「何《ど》うでせう、助かりませうか。」
 父の男爵は、傍に誰もゐないのを見計《みはから》うて、囁くやうに訊いた。
「希望はあります。けれど……」
 さう答へたまゝ、博士の口は重く噤《つぐ》まれてしまつた。
 美奈子は、さうした問を発することが、恐ろしかつた。彼女はたゞ、力一杯、心と身体との力一杯消え行かうとする母の魂に、縋り付いてゐる外はなかつた。昨夜中、眠らなかつた美奈子の身体は綿のやうに疲れてゐた。が、彼女は誰が何と勧めても母の病床を去らうとはしなかつた。
 瑠璃子は、昏睡から覚める度に、美奈子の耳許近く、同一の問を繰返してゐた。が、その人は容易に、来なかつた。電報が運よく届いてゐるかどうかさへ、判然《はつきり》しなかつた。
 午後三時頃だつた。瑠璃子は、その衰へた視力で、美奈子をぢつと見詰めてゐたが、ふと気が付いたやうに云つた。
「青木さんは?」
 美奈子は愕然《ぎよつ》とした。彼女は、暫らくは返事が出来なかつた。
「青木さんは?」
 母は、繰り返した。美奈子は、顫へる声で答へた。
「何処へ行かれたか分りませんの。あの晩からずうつと分りませんの。」
 が、瑠璃子は、美奈子の表情で凡てを悟つたらしかつた。寂しい微笑らしい影が、その唇のほとりに浮んだ。
「美奈さん、本当を云つて下さい。妾《わたし》覚悟してゐますから。どうせ助からないのですから。」
 美奈子は、何とも口が利けなかつた。
「自首したの?」
 美奈子は、首を振つた。瑠璃子の衰へた顔に、絶望的な色が動いた。
「ぢや、自殺?」
 美奈子は、黙つてしまつた。彼女の舌は、釘付けられたやうに動かなかつた。
「さう! 妾《わたし》、さうだと思つてゐたの。でも今度|丈《だけ》は、妾《わたし》悪意はなかつたの。」
 さう云ひながら、瑠璃子は目を閉ぢた。美奈子には凡てが判つてゐた。母は、美奈子に対する義理として、青年をあれほど、露骨に斥けたのだつた。美奈子に対する彼女の真心が、彼女を、この恐ろしい結果に導いたのだと云つてもよかつた。さう思ふと、美奈子は身も世もないやうな心持がした。
 日暮に近づくに従つて、瑠璃子の容態は、険悪になつた。熱が、反対にぐん/\下つて行つた。呼吸が――それも何の力もない――愈々《いよ/\》せはしくなつて行つた。
 博士は、到頭今夜中が危険だと云ふことを、宣言した。
 瑠璃子に対して、死の判決文が読まれたときだつた。ホテルの玄関に、横着《よこづけ》になつた一台の自動車があつた。それは昔の恋人の危急に駭いて、瀕死の床を見舞ふべく駈け付けて来た直也だつた。熱帯地に於ける二年の奮闘は、彼の容貌をも変へてゐた。一個白面の貴公子であつた彼は、今や赭《あかぐろ》い男性的な顔色と、隆々たる筋肉を持つてゐた。見るからに、颯爽たる風采と面魂《つらだましひ》とを持つてゐた。その昔ながらに美しい眸は、自信と希望とに燃えてゐた。

        六

 直也が瑠璃子の部屋に入つて来たとき、瑠璃子は夢ともなく現《うつゝ》ともないやうに眠つてゐた。
 生命そのもの、活動そのものと云つたやうな直也の姿と、死そのもの、衰弱そのものと云つたやうな瑠璃子の蒼ざめた瀕死の姿とは、何と云ふ不思議な、しかしあはれな、対照をしただらう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた二年前の恋人同士として、其処に何と云ふおそろしい隔《へだたり》が出来たことだらう。
 美奈子は、看護婦達を遠ざけた。そして、母の耳許に口を寄せて叫んだ。
「お母さま、あの、直也様がいらつしやいました。」
 段々、衰へかけてゐる瑠璃子の聴覚には、それが容易には聞えなかつた。美奈子は再び叫んだ。
「お母さま、直也様がいらつしやいました。」
 瑠璃子の土のやうに蒼い面《かほ》の筋肉が、かすかに、動いたやうに思つた。美奈子の声が漸く聞えたのである。美奈子は、三度目に力を籠めて叫んだ。
「お母様、直也様がいらつしやいました。」
 ふと母の頬が、――二日の間に青白く萎びてしまつた頬が、ほのかにではあるがうす赤く染まつて行つたかと思ふと、その落窪んだ二つの眼から、大粒の涙がほろ/\と、止めどもなく湧き出でた。と、今まで毅然として立つてゐた、直也の男性的な顔が、妙にひきつツたかと思ふと、彼の赭《あかぐろ》い頬を、涙が、滂沱《ばうだ》として流れ落ちた。
 美奈子は、恋人同士に、二人|限《き》りの久し振りの、やがて最後になるかも知れない会見を与へようと思つた。
「お母様! それでは、妾《わたくし》はお次ぎへ行つてをりますから。」
 さう云つて、美奈子は次ぎの部屋に去らうとした。すると、意外にも瑠璃子は、瀕死の声を揚げて云つた。
「美奈さん! あなたも――どうか/\ゐて下さい。」
 それは、かすかな、僅に唇を洩るゝやうな声だつた。
「お母様、妾《わたくし》もゐるのですか。妾もゐるのですか。」美奈子は、再び訊いた。母は、肯いた。いな肯くやうに、その重い頭を、動かさうとしたのだ。
 やがて、瑠璃子は、その衰へはてた眸を持ち上げながら、何かを探るやうな眼付をした。
「瑠璃さん! 僕です、僕です。分りますか。杉野ですよ。」
 直也も、激して来る感情に堪へないやうに叫びながら、瑠璃子に掩ひかぶさるやうに、その赭《あかぐろ》い顔を、瑠璃子の顔に触れるやうな近くへ持つて行つた。
 瀕死の眼にも恋人の顔が分つたのだらう、彼女の衰へた顔にも嬉しげな微笑の影が動いた。それは本当に影に過ぎなかつた。微笑む丈《だけ》の力も、彼女にはもう残つてゐなかつたのだ。
「直也さん!」
 瑠璃子は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼつたのだらう、が、しかし、それはかすかな、うめくやうな声として、唇を洩れたのに過ぎなかつた。
「何です? 何です?」
 直也は、瑠璃子の去らんとする魂に、縋り付くやうに云つた。
「わ――た――し、あなたには何も云ひませんわ。たゞお願ひがあるのです。」
 それだけ続けるのが、彼女には精一杯だつた。
「願ひつて何です?」
「聴いてくれますか。」
「聴きますとも。」
 直也は、心の底から叫んだ。
「あの――あの――美奈さんを、貴君《あなた》にお頼みしたいのです。美奈さんは――美奈さんは――みなし――みなし――みなしご……」
 そこまで、云つたとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたやうに、彼女はぐつたりとなつてしまつた。
 母は、直也を呼んだことが、彼女自身のためではなく、母が一番信頼する直也に、自分の将来を頼む為であつたかと思ふと、美奈子は母の真
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