心に、その死よりも強き愛に、よゝとばかり、泣き伏してしまつた。
 その夜、瑠璃子の魂は、美しかりし彼女の肉体を永久に離れた。烈々たる炎の如き感情の動くまゝに、その短生《たんせい》を、火花の如く散らし去つた彼女の勝気な魂は、恐らく何の悔をも懐くことなく縹渺《へうべう》として天外に飛び去つたことだらう。

        七

 母を失つた美奈子の悲嘆は、限りもなかつた。彼女は、世の中の凡てを失ふとも、母さへ永らへて呉れゝばと、嘆き悲しんだ。
 母の亡骸《なきがら》が、棺に納められた後、彼女は涙の裡に母の身辺のものを、片づけにかゝつてゐた。そして、最後に、母が刺されたその夜に、身に付けてゐた、白い肌襦袢に、手を触れなければならなかつた。それには、所々血が浸《にじ》んでゐた。美奈子は、それに手を触れるのが恐ろしかつた。が、母が身に付けたものを、他人の手にかけるのは、厭だつた。彼女は、恐る/\それを手に取り上げた。そのときに、彼女はふとその襦袢の胴のところに、布類とは違つた堅い手触りを感じた。彼女は駭《おどろ》いて見直した。其処には何か紙片《かみきれ》のやうなものが、軽く裏側から別に布を掩うて、縫ひ付けられてゐた。彼女はそれを見ようか見まいかと思ひまどつた。母の秘密を、死後に暴くことになりはしまいかと恐れたが、彼女はそれが母の大切な遺書か、何かのやうにも思はれた。彼女は、思ひ切つて、おそる/\それを取り出して見た。意外にも、それは台紙を剥がした一葉の写真だつたのである。写真は、絶えず母の肌と触れてゐたために、薄れてはゐたけれども、まぎれもなく直也が、学生時代の姿だつた。
 美奈子は、その写真を見たときに、母の本当の心が判つたやうに思つた。母が、黄金の力のために偽《いつはり》の結婚をしたときも、美しき妖婦として、群がる男性を飜弄してゐたときにも、彼女の心の底深く、初恋の男性に対する美しき操は、汚れなき真珠の如く燦然として輝いてゐたのであつた。いな、彼女は初恋の人に対する心と肉体との操を守りながら、初恋を蹂み躙られた恨《うらみ》を、多くの男性に報いてゐたと云つてもよかつた。
 美奈子は、母に対する新しい感激の涙に咽びながら、隣室にゐた直也を呼ぶと、黙つてその写真と肌襦袢とを示した。
 暫らく、それを見詰めてゐた直也は、溢れ出《い》づる涙が、美奈子の手前一寸は支へてゐたが、到頭堪へきれなくなつたと見え、男泣きに泣き出してしまつた。

       ×

 青木稔と瑠璃子との死に就いて、都下の新聞紙は、その社会部面の過半を割いて、いろ/\に書き立てた。が、そのどれもが、瑠璃子夫人を男の血を吸ふ、美しい吸血魔《ヴァムパイア》とすることに一致した。中には、夫人の死を、妖婦カルメンの死に比してゐるものもあつた。夫人の華麗奔放、放縦|不羈《ふき》の生活を伝聞してゐた人々は、新聞の報道を少しも疑はなかつた。夫人の美しさを頌《たゝ》へると同時に、夫人の態度を非難する嵐のやうな世評の中に在つて、夫人の本当の心、その本当の姿を知つてゐるものは、美奈子と直也の外にはなかつた。
 が、世の中の千万人から非難されようとも、彼女がこの世の中で愛した、たつた二人の男性と女性とから、理解されてゐることは、大輪の緋牡丹の崩るゝ如く散り去つた彼女に取つて、さぞ本望であつただらう。

       ×

 記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋の季節《シーズン》を通じての傑作として、美術批評家達の讃辞を浴びたことを記憶してゐるだらう。
 それは、清麗高雅、真珠の如き美貌を持つた若き夫人の立姿であつた。而も、この肖像画の成功はその顔に巧みに現はされた自覚した近代的女性に特有な、理智的な、精神的な、表情の輝きであると云はれてゐた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、K. K. と署名《サイン》されてゐるのに気が付いただらう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進してゐた唐沢光一が、妹の横死を悼む涙の裡に完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一の手向であつたのであらう。

       ×

 瑠璃子を失つた美奈子の運命が、此先|何《ど》うなつて行くか、それは未来のことであるから、此の小説の作者にも分らない。が、われ/\は彼女を安心して、直也の手に委せて置いてもいゝだらうと思ふ。



底本:「菊池寛全集 第五巻」高松市菊池寛記念館刊行、文藝春秋発売
   1994(平成6)年3月15日発行
底本の親本:「菊池寛全集 第六巻」中央公論社
   1937(昭和12)年9月21日刊行
初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」
   1920(大正9)年6月9日〜12月22日
初収単行本:「真珠夫人(前編・後編)」新潮社
   1920(大正9)年12月28日刊行
※外来語に限って、片仮名に小書きを用いる本文の表記に合わせ、ルビも処理しました。(ただし「希臘《ギリシヤ》」には、小書きを用いませんでした。)
※旧仮名遣いから外れると思われる表記にも、注記はしませんでした。
※「唐澤」「唐沢」、「愈々《いよ/\》」「愈《いよ/\》」、「…だけ」「…丈」「…丈《だ》け」「…丈《だけ》」、「此の青年」「此青年」、「面魂《つらだましひ》」「面魂《つらたましひ》」などの混在は、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年3月8日作成
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