うな顔色を示した。が、彼の忠告は間に合つただらうか。いな、彼の忠告は、|後の祭《ツーレート》だつた。一時間だけ、遅れ過ぎた。
彼の忠告は、災禍の火を未然に消す風とならずして、却つてその火を煽り立てた。彼が、夫人の危険を説いたときに、青年はもう、夫人から弄ばれてゐたのだ。否、弄ばれたと思つてゐたのだ。夫人から、弄ばれた恨《うらみ》と憤《いきどほり》とに、燃えてゐた青年の心を、彼はいやが上に煽つた。
『お前ばかりではない、お前の肉親の兄も、あの女に弄ばれて、身を過つたのだ! 身を亡したのだ!』と。
「いや! 御忠告ありがたう! 御忠告ありがたう!」
青年は、さう云ひながら立ち上つた。が、あまり興奮した為だらう、彼は、眼が眩んだやうに、よろめいた。
紳士は、周章《あわて》て、青年の身体を支へた。
「いや、あまりに興奮なさつては困りますよ。お心を落着けて、気を静めて!」
が、青年はそれを振切つた。
「いや、捨てゝ置いて下さい! 大丈夫です、大丈夫です!」
さう云ひながら、青年は廊下へよろめきながら出た。『大丈夫です!』と、口では云つたものの、彼はもう決して、大丈夫ではなかつた。
彼の頭の中には、激情の嵐が吹き荒れた。怒《いかり》と恨《うらみ》との洪水が漲つた。理性の燈火は、もうふツつりと消えてしまつてゐた。
「兄を弄んだ上に、この俺を!」
さう思ふと、彼の全身の血は、怒《いかり》のためにぐん/\と煮え返つた。
「兄を弄んで間接に、殺して置きながら、まだ二月と経たない今、この俺を! 箱根まで誘ひ出して、謂《い》はれのない恥辱を与へる!」
さう考へると、彼の頭の裡は、燃えた。身体中の筋肉が、異様に痙攣した。
もう世の中の他の凡ては、彼の頭から消え去つた。国家も社会も法律も、父も母も妹も、恐怖も羞恥も、愛も同情も。たゞ恐ろしい憎《にくし》み丈《だけ》が残つた。その憎みは、爆発薬のやうな烈しさが、彼の胸の裡を縦横にのたうつた。
さうした彼の心の裡に、焼き付いたやうに残つてゐるのは、先刻《さつき》読んだ兄の手記中の一節だつた。
『さうだ、一層《いつそ》死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせるために。』
が、兄が死んでも彼女は、少しも思ひ知らうとはしなかつた。兄の死を冷眼視するほど、彼女が厚顔無恥であるとしたならば、彼女を思ひ知らせるには、さうだ! 彼女を思ひ知らせるには。
さう考へたとき、彼の全身の血は、海嘯《つなみ》のやうに、彼の狂ひかけた頭へ逆上して来た。
破裂点
一
強羅公園で、お互の心からなる浄い愛に、溶け合つた美奈子と瑠璃子とが、其処に一時間以上も費して、宮の下へ帰つて来たのは、夜の十時を廻つた頃だつた。
二人とも、心の裡では、青年のことが気になつてゐたけれども、それを口に出すことを避け合つた。
が、部屋へ入つたとき、瑠璃子は遉《さすが》に青年の寝室の扉《ドア》に立ち寄つて、そつと容子を窺つた。
「もう、青木さんは寝たのかしら。」
さう云つて、彼女は扉《ドア》に手をかけて見た。それは平素《いつも》[#ルビの「いつも」は底本では「いつち」]になく内部から、鍵が、かけられたと見え、ビクリとも動かなかつた。
「あゝ。もう、寝ていらつしやる!」
瑠璃子は、やつと安堵したやうに云つた。
美奈子と瑠璃子とが、同じ寝室に入つて、寝台《ベッド》の中に横はつたのは、もう十一時を廻つた頃だつた。
電燈を消してからも、美奈子は母と暫らくの間、言葉を交へた。その裡に、十二時が鳴つた。彼女は、駭《おどろ》いて眠《ねむり》に入らうとした。が、その夜の烈しい経験は、――彼女が生れて以来初めて出会つたやうな複雑な、烈しい出来事は、彼女の神経を、極度に掻き擾《みだ》してゐた。彼女が、いくら眠らうとあせつても、意識は冴え返つて、先刻の恐ろしい情景が、頭の中で幾度も幾度も、繰り返された。青年の凄いほど、緊張した顔が、彼女の頭の中を、巴《ともゑ》のやうに馳け廻つた。
眠らう眠らうとあせればあせるほど、神経が益々いらだつて来た。記憶が、異常に興奮して、自分の生ひ立ちや、母の死や父の死や、兄の事などが、頭の中に次ぎ/\に思ひ浮んで来た。
その裡に一時が鳴つた。
瑠璃子も、寝台《ベッド》の中で、暫らくの間は、眠り悩んでゐたやうだつたが、その裡に、おだやかな鼾《いびき》の声が聞え初めた。
母が、眠《ねむり》に就いたのを知ると、美奈子は益々あせつてゐた。口の中で、数を算へて見たり、深呼吸をして気持を落ち着けようと試みたりした。が、それもこれも無駄だつた。先刻聴いたばかりの青年の怨みの声が、落ち着かうとする美奈子の心の裡に、幾度も/\甦つて来た。
その裡に、二時が鳴つた。
烈しい興奮のために、頭脳《あたま》も眼も、疲れ切つてゐながら、それが妙にいら/\して、眠は何《ど》うしても来なかつた。
その裡に、到頭三時が鳴つた。
遉《さすが》に、彼女の意識は疲れてしまつた。不快な、重くるしい眠が、彼女のぐた/\になつた頭脳を蝕み始めてゐた。現《うつゝ》ともなく夢ともないやうな、いやな半睡半醒の状態が、暫らく続いた。彼女はとろとろとしたかと思ふと、ハツと気が付いたり、気が付いたかと思ふと、深い泥沼の中に、引きずり込まれるやうに、いやな眠りの中に、陥つて行つたりした。
彼女が、砂を噛むやうな現《うつゝ》と、胸ぐるしい悪夢との間に、さまよつてゐたときだつた。彼女は、何者かが自分を襲つて来るやうな、無気味な感じがした。寝室の扉《ドア》が、かすかに動いてゐるやうな感じがした。自分に襲ひかゝつてゐる人の足音を聴くやうな気がした。が、それが夢であるか現《うつゝ》であるか確める気にもなれないほど、彼女の意識は混沌としてゐた。
到頭、悪夢が、彼女を囚へてしまつた。彼女は母と一緒に田舎路を歩いてゐた。それが、死んだ母のやうでもあり、現在の母であるやうにも思はれた。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のやうな勢ひで、彼女達の方へ向つて来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛であることが、判つた。狼狽してゐる美奈子達を目がけて激しい勢ひで殺到した。美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫つた。美奈子が、アツと思ふ間もなく、牡牛の鉄のやうな角は、母の脇腹を抉つてゐた。母の、恐ろしい呻り声が美奈子の魂を戦《をのゝ》かしたが、母の呻き声を聴いた途端に、悪夢は断《き》れた。が、不思議に呻き声のみは、尚続いてゐた。
二
悪夢の裡に聴いた呻き声を、美奈子は夢《ゆめ》現《うつゝ》の間に聞き続けてゐた。
「うゝむ! うゝむ!」
腸《はらわた》を断つやうな呻き声が、段々彼女の耳の近くに聞え初めた。彼女の意識が、醒めかゝるに連れてその呻き声は段々高くなつた。
「うゝむ! うゝむ!」
彼女は、到頭寝台の上に醒めた。醒めたと同時に、彼女は冷水を浴びたやうな悪寒を感じた。
「うゝむ! うゝむ!」
ひきしぼるやうな悲鳴は、彼女の身辺からマザ/\と起つてゐるのであつた。
「お母様!」
それは、悲鳴だつた。
「お母様! お母様!」
美奈子は、つゞけ様《さま》に、縋り付くやうな悲鳴を揚げた。
母の答はなかつた。
低い、しぼり出るやうな悲鳴が、物凄く闇の中に起つてゐるだけだつた。
「あ! お母様!」
美奈子は、堪らなくなつて、寝台から転び落ちた。
母の寝台は、二尺とは離れてゐなかつた。彼女が、顫へる手を、寝台の一端にかけたとき、生あたたかい液体が、彼女の手にベツトリと、触れた。
「お母様!」彼女の声は、わな/\と顫へてゐた。
彼女の手は、母の胸に触れた。母の華奢な肉体が、手の下でかすかにうごめいた。
「お母様! お母様! 何う遊ばしたのです。」彼女は、懸命の声を揚げた。
低い呻き声が、しばらく続いてゐた。
「お母様! お母様! 気を確《たしか》になさいませ。」美奈子は、狂つたやうに叫んだ。
母は、烈しい苦悩の下から、しぼり出すやうに答へた。
「燈火《あかり》を! 燈火を!」
傷《きずつ》ける者、死なんとする者が、第一に求めるものは光明だつた。
美奈子は立上つて電燈を探し求めた。狼狽《あわて》てゐる故《せゐ》か、電燈がなか/\手に触れなかつた。
が、やうやくスヰッチを捻つたとき、明るい光は、痛ましい光景を、マザ/\と照し出した。母の白い寝衣《ねまき》、白いシーツ、白い毛布に、夜目には赤黒く見える血潮が、ベタ/\と一面に浸んでゐる。
「あつ?」
美奈子は、一眼見ると床の上に、よろめきながら打ち倒れた。が、母を気遣ふ心が、直ぐ彼女を起ち上らせた。
「お母様! しつかりなさいませ!」
彼女は、さう叫びながら、母に縋り付いた。致命の傷を負ひながら、彼女は少しも取り乱した様子はなかつた。右の脇腹の傷口を、両手でぢつと押へながら、全身を掻きむしるほどの苦痛を、その利かぬ気で、その凜々しい気性で、ぢつと堪《こら》へてゐるのだつた。
彼女のかよわい肉体の血は、彼女が抑へてゐる両手の間から、惜しげもなく流れ出してゐるのだつた。
美奈子も一生懸命だつた。自分の寝台のシーツを取ると、それを小さく引き裂いて、母の傷口を幾重にも幾重にもくゝつた。
「お母様! 気を確《たしか》になさいませ。直ぐ医者を呼びますから。」
彼女は、母の耳元に口を寄せて、必死に呼んだ。それが、耳に入つたのだらう、母は、かすかに頭を動かした。大理石のやうに、光沢のあつた白い頬は、蒼ざめて、美しい眼は、にぶい光を放ち、眉は釣り上がり、唇は刻一刻紫色に変つてゐた。
美奈子が、寝室を出て、居間の方にある卓上の電話を取り上げたときだつた。彼女は、青年の寝室の扉《ドア》が開かれて、其処に寝台が空しく横たはつてゐるのを知つた。
恐しい悲劇の実相が、彼女に判然と判つた。
三
医者が来るまで、瑠璃子は恐ろしい苦痛に悶えてゐた。が、彼女はその苦痛を、ぢつと堪へてゐた。華奢な身体に、致命の傷を負ひながら、彼女は悲鳴一つ揚げなかつた。たゞ抑へ切れない苦痛を、低いうめき声に洩してゐるだけであつた。
美奈子の方が、却つて逆上してゐた。彼女は、母の胸に縋りながら、
「お母様! しつかりして下さい。しつかりして下さい!」と、おろ/\叫んでゐるだけだつた。
その裡に、瑠璃子は、ふと閉してゐた眼を開いた。そして、異様な光を帯び初めた眸で、ぢつと美奈子を見詰めた。
「お母様! お母様! しつかりして下さい!」
美奈子は、泣き声で叫んだ。
「美奈さん!」
瑠璃子は、身体に残つてゐる力を、振りしぼつたやうな声を出した。
「わーたーし、わたし今度は、もう――駄目かも知れないわ。」
一語二語、腸《はらわた》から、しぼり出るやうな声だつた。
「お母様! そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。」
「いゝえ! わたし、覚悟してゐますの。美奈さんには、すみませんわね。」
さう云つた母の顔は、苦痛のために、ピク/\と痙攣した。
美奈子は、わあつ! と泣き出さずにはゐられなかつた。
「それで、わたし貴女《あなた》に、お願ひがあるの。あの、電報を打つときに、神戸へも打つていたゞきたいの!」
瑠璃子は、恐ろしい苦痛に堪へながら、途切れ/\に話しつゞけた。
「神戸! 神戸つて、何方《どなた》にです?」
美奈子は、怪しみながら訊いた。
「あの、あの。」瑠璃子は苦痛のために、云ひ澱んだやうだつたが、「あの、杉野直也です。わたし、新聞で見たのです。月|初《はじめ》に、ボルネオから帰つて、神戸の南洋貿易会社にゐる筈です。死ぬ前に一度逢へればと思ふのです。」
瑠璃子は、やつと喘ぎながら云ひ終ると、精根が全く尽きたやうに、ガクリとくづほれてしまつた。
二年の間、恋人のことを忘れはてたやうに見せながらも、真《まこと》は心の底深く思ひ続けてゐたのであらう。恋人の消
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