。
「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はかうしてはゐられないのです。」
青年は、さう云ひ切ると、相手を振り払ふやうに、階段を馳け上らうとした。が、相手はまだ諦めなかつた。
「青木君! 一寸お待ちなさい。貴方は、お兄《あにい》さんからの言伝《ことづて》を聴かうとは思はないですか。さうです、貴君に対する言伝です。特に、現在の貴君に対する言伝です。」
さう云はれると、青年は遉《さすが》に足を止めずにはゐられなかつた。
「言伝《ことづて》! 死んだ兄から、そんな馬鹿な話があるものですか。」
青年は嘲るやうに、云ひ放つた。
「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君のお顔の色を見ると、それを云はずにはゐられなかつたのです。貴君は、今可なり危険な深淵の前に立つてゐる。私は貴君がムザ/\その中へ陥るのを見るに忍びないのです。お兄《あにい》さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずにはゐられないのです。」
さう云ひながら、相手は青年と同じ階段のところまで上つて来た。
「危険な深淵! さうです。貴君のお兄《あにい》さんが、誤つて陥つた深淵へ貴君までが、同じやうに陥ちようとしてゐるのです。」
青年は、改めて相手の顔を見直した。相手が可なり真面目で、自分に対して好意を持つてゐて呉れることが、直ぐ判つた。が、相手が妙に、意味ありげな云ひ廻しをすることが、彼のいら/\してゐる神経を、更にいら立たせた。
「それが一体|何《ど》う云ふことなのです。僕には少しも分りませんが。」
青年は、腹立たしげに、相手を叱するやうに云つた。
「それでは、もつと具体的に云ひませう。青木君! 貴君は、一日も早く、荘田夫人から遠ざかる必要があるのです。さうです。一日も早くです。あの夫人は、貴君の身体を呑んでしまふ恐ろしい深淵です。貴君のお兄《あにい》さんは、それに呑まれてしまつたのです。」
紳士は、さう云つて、ぢつと青年の顔を見詰めた。
「貴君は、兄さんの誤《あやまり》を再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」
さう云ふかと思ふと、紳士は一寸青年に会釈したまゝ、階段をスタ/\と降りかけた、もう云ふ丈けのことは、スツカリ云つてしまつたと云ふ風に。
今度は、青年の方が、狼狽して呼び止めた。
「待つて下さい! 待つて下さい! そんなことを本当に兄が云つたですか。」
紳士は顔|丈《だ》けを振り向けた。
「文字|通《どほり》に、さう云はれたとは云ひません。が、それと同じことを私に云はれたのです。」
「何時! 何処で?」
青年は、可なり焦つて訊いた。
「お兄《あにい》さんが死なれる直ぐ前です。」
さう云つて、紳士は淋しい微笑を洩した。
「死ぬ直ぐ前? それでは貴君は、兄の臨終に居合したと云ふのですか。」
青年は、可なり緊張して訊いた。
「さうです。貴君《あなた》のお兄《あにい》さんの臨終に居合したたつた一人の人間は私です。お兄さんの遺言を聴いたたつた一人の人間も私です。」
紳士は落着いて、静《しづか》に答へた。
「えゝつ! 兄の遺言を。一体兄は何と云つたのです。何と云つたのです。その遺言を貴君が、今まで遺族の者に、隠してゐるなんて!」
青年は、相手を詰問するやうに云つた。
「いや、決して隠してはゐません、現在貴君に、その遺言を伝へてゐるぢやありませんか。」
四
紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰ひ入つてしまつた。
「本当に、貴君は兄の臨終に居合したのですか。それで、兄は何と云ひました。兄は死際に何と云ひました?」
青年は、昂奮し焦つた。
「いや、それに就いて、貴君にゆつくりお話したいと思つてゐたのです。茲《こゝ》ぢや、どうもお話しにくいですが、いかゞです僕の部屋へ。」
紳士は可なり落着いてゐた。
「貴君さへお差支へなけれや。」
「ぢや、僕の部屋へ来て下さい。丁度|妻《さい》は、湯に入つてゐますので誰もゐませんから。」
紳士の部屋は、階段を上つてから、左へ二番目の部屋だつた。
紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子を進めて、自分も青年と二尺と隔らずに相対して腰を降した。
「申し遅れました。僕は渥美と云ふものですが。」
さう云つて紳士は、改めて挨拶した。
「いや、実は避暑に出る前に、貴君に一度是非お目にかゝりたいと思つてゐたのです。貴君にお目にかけたいもの、貴君に申上げたいこともあつたのです。それで、それとなく貴君のお宅へ電話をかけて、貴君の在否を探つて見ると、意外にも宮の下へ来てゐられると云ふのです。それで、実は私は小湧谷の方へ行くつもりであつたのですが、貴君にお目にかかれはしないかと云ふ希望があつたものですから、二三日、此処へ宿《とま》つて見る気になつたのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴君にお目にかゝらうとは、貴君ばかりでなく荘田夫人にお目にかゝらうとは。」
紳士は一寸意味ありげな微笑を洩しながら、
「実は、お兄《あにい》さんが遭難されたとき、同乗してゐたと云ふ一人の旅客は私なのです。」
「えゝつ!」
思はず、青年は、駭《おどろ》きの目を眸《みは》つた。
「お兄《あにい》さんの死は、形は奇禍のやうですが、心持は自殺です。私は、さう断言したいのです。お兄さんは、死場所を求めて、三保から豆相《づさう》の間を彷徨《さまよ》つてゐたのです。奇禍が偶然にお兄《あにい》さんの自殺を早めたのです。」
紳士の表情は、可なり厳粛であつた。彼が、いゝ加減なことを云つてゐるとは、どうしても思はれなかつた。
「自殺! 兄はそんな意志があつたのですか。」
青年は駭きながら訊いた。
「ありましたとも。それは、貴君にも直ぐ判りますが。」
「自殺! 自殺の意志。もしあつたとすれば、それは何のための自殺でせう。」
「ある婦人のために、弄ばれたのです。」
紳士は苦々しげに云つた。
「婦人のために、弄ばれる。」
さう繰り返した青年の顔は、見る/\色を変へた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハツと思ひ当つたのである。
「それは本当でせうか。貴君は、それを断言する証拠がありますか。」
青年の眼は、興奮のために爛々と輝いた。
「ありますとも。お兄《あにい》さんの遺言と云ふのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄《あにい》さんの恨みを伝へて呉れと云ふことだつたのです。」
「うゝむ!」
青年は、低く呻《うな》るやうに答へた。
「実は、私はその恨みを伝へようとしたのです。が、その婦人は、恨《うらみ》を物の見事に跳ねつけてしまつたのです。そればかりでなく、死んだお兄《あにい》さんを辱めるやうなことまでも云つたのです。その婦人はお兄《あにい》さんを弄んで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしてゐるのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それは私《わたくし》の故《せゐ》ではありません、あの方の弱い性格の故《せゐ》だと、その婦人は云つてゐるのです。そればかりではありません……」
紳士も、自分自身の言葉に可なり興奮してしまつた。
五
紳士は興奮して叫び続けた。
「そればかりではありません。青木君を弄んで間接に殺しながらまだそれにも懲《こ》りないで、青木君の弟である……」
「あゝもう沢山です。」青年は、相手に縋り付くやうな手付をして云つた。「判りました、よく判りました。が、証拠がありますか? 兄が弄ばれて、自殺を決心したと云ふ証拠がありますか?」
青年の眸《ひとみ》は必死の色を浮べてゐた。
「ありますとも。お見せしませう。が、さう興奮しないで、ゆつくり気を落着けて下さい。」
さう云ひながら、紳士は椅子を離れると、部屋の片隅に置いてある大きな鞄《トランク》に近づいて、それを開きながら、中から一冊のノートを取り出した。
「これです。此の筆蹟には覚えがあるでせう。」
さう云ひながら、相手はノートを、籐の卓子《テーブル》の上に置いた。青年は、焼き付くやうな眼で、それをぢつと見詰めた。表紙の青木淳と云ふ字が、いかにも懐しい兄の筆蹟だつた。
「ぢや、拝見します。」
彼はかすかに、顫へる手付で、そのノートを取り上げた。
恐ろしい沈黙が部屋の中に在つた。ノートの頁《ページ》のめくられる音が、時々気味悪くその沈黙を破つた。
二分三分、青年は、だまつて読みつゞけた。その中に、青年の腰かけてゐる椅子が、かすかな音を立て初めた。見ると、青年の身体が、怒《いかり》のために激しく顫へてゐたのである。
「何《ど》うです! これほど、確な証拠はないでせう。遭難当時のお兄《あにい》さんの心持が、ハツキリ解つてゐるでせう。途中で、奇禍に逢はれなかつたら、お兄さんは屹度《きつと》、熱海か何処かで、自殺をしてをられる筈です。」
紳士は、ノートを覗き込むやうにしながら云つた。
青年の顔は、恐ろしい感情の激発のために、紫色にふくらんでゐた。
紳士は、青年の感情をもつと狂はすやうに云つた。
「其処に白金《プラチナ》の時計のことが、書いてあるでせう。お兄《あにい》さんは、死なれる間際に、その時計を返して呉れと云はれたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物は、お兄《あにい》さんの血で、真赤に染められてゐたのです。衝突のときに、硝子《ガラス》が壊れたと見え、血が時計の胴に浸んでゐたのです。」
「それを何《ど》うしました。それを何うしました。」
青年は、激情のために、半《なかば》狂つてゐた。
「無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持を酌《く》んで、それを叩き返してやらうと思つたのです。それを返しながら、お兄さんの怨みを、知らせてやらうと思つたのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲き上げられてしまつたのです。あの方は、妖婦です。僕達には、とても真面《まとも》に太刀打は出来ない人です。」
「妖婦! 妖婦!」
青年は狂つたやうに、口走つた。
「いや、その点で私はお兄《あにい》さんの、委託に背いてしまつたのです。取返しの付かないことをしてしまつたのです。が、その代り、私は貴君を何《ど》うかして、救ひたいと思つたのです。お兄《あにい》さんに対する僕の責任として、貴君が同じ過ちを犯すのを、何《ど》うかして救ひたいと思つたのです。私は、そのために、あの方に頼んだのです。青木君に対する貴女《あなた》の後悔として、青木君の弟|丈《だけ》は弄んで呉れるな。弟さん丈《だけ》は何《ど》うか、誘惑して呉れるな。私は、さう云つて事を別けて頼んだのです。それだのに、彼女はそれを冷然と跳付《はねつ》けたのです。いや、跳付けたばかりではありません。私のさうした依頼を嘲るやうに、いやそれに対する意地のやうに、わざと貴君を一緒に連れて来てゐるのです。」
六
青年の面《おもて》が、火のやうな激憤で、埋まるのを見ると、紳士はそれを宥めるやうに云つた。
「いや、貴君がお怒りになり、お駭きになるのも尤もです。が、あゝした人には、近よらないのが万全の策です。貴君が怒つて先方にぶつかつて行くと、いよ/\相手の術策に陥つてしまふのです。あの方の張つてゐる蜘蛛の網の中で手も足も出なくなつてしまふのです。たゞ、一刻も早く茲《こゝ》を去られるのが得策です。いや、茲《こゝ》ばかりではありません。夫人の周囲から[#「周囲から」は底本では「周圍から」]、絶対に去られるのが得策です。触らぬ神に祟りなしと云ふ言葉があります。まして、相手は特別、恐ろしい女神ですから。はゝゝゝゝゝゝ。」
紳士は軽く笑つた、話が、余り緊張して来たのを、わざと緩めようとして。
「然し、兎に角私としては、これでお兄《あにい》さんに対する責任を少しは尽したやうに思ふのです。さう云ふ意味で、貴君が僕の云ふことを、よく聴いて下さつたのを有難く思ふのです。いや、私が一歩遅かつたら、貴君もどんな目に逢つてゐるかも知れなかつたのです。」
紳士は、自分の忠告が間に合つたことを、欣ぶや
前へ
次へ
全63ページ中60ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング