は張り裂けるやうです。美奈さん! 許して下さい。どうぞ、妾《わたし》の罪を許して下さい!」
瑠璃子は苛責に堪へないやうに、面《おもて》を伏せて終つた。
「まあ! お母様、何を仰しやるのです。許して呉れなんて、妾《わたし》、何も……」
美奈子は、烈しい恥しさに堪へながら、母を慰めようとした。
「こんなことは、許しを願へるやうなものではないかも知れません。本当に、許しがたいことです。『|許し難いこと《イントレランス》』です。貴女《あなた》が許して下さつても、妾《わたし》の心は何時までも、何時までも苦しむのです。妾《わたし》が、世の中で一番愛してゐる貴女に、恐ろしい不幸を浴びせてゐようとは恐ろしいことです。恐ろしいことです。」
冷静な母の態度も、心の烈しい其の苛責の為めに、だん/\乱れて行つた。
美奈子は、最初自分の心を母からマザ/\と指摘された恥しさで、動乱してゐたが、それが静まるに連れて、母の自分に対する愛、誠意にだん/\動かされ初めた。
八
「妾《わたし》が、男性に対する意地と反感とでしたことが、男性を傷《きずつ》けないで、却つて女性、しかも妾《わたし》には、一番親しい、一番愛してゐる貴女を傷けようとは、夢にも思はなかつたのです。何と云ふ皮肉でせう。何と云ふ恐ろしい皮肉でせう。」
母の心の悶えは、益々烈しくなつて行くやうだつた。
「妾《わたし》の生活が、破産する日が、到頭来たのです。妾《わたし》の生活の罰が、妾《わたし》の最も愛する貴女の上に振りかかつて来ようとは。」
瑠璃子の声はかすかに顫へてゐた。
「妾《わたし》は、今までどんな人から、どんなに妾《わたし》の生活を非難されても、ビクともしなかつたのです。妾《わたし》の生活態度のために、犠牲者が出ようとも、ビクともしなかつたのです。妾《わたし》は、孔雀のやうに勝ち誇つてゐたのです。凡ての男性を蹂み躙つてゐたのです。が、男性ばかりを蹂み躙つてゐるつもりで、得意になつてゐると、その男性に交つて、女性! しかも妾《わたし》には一番親しい女性を蹂み躙つてゐたのです。」
瑠璃子は、さう云ひ切ると、ぢつと面《おもて》を垂れたまゝ黙つてしまつた。
美奈子は、母の真剣な言葉に依つて、胸をヒタ/\と打たれるやうに思つた。母が、自分のために何物をも犠牲にしようと云ふ心持、自分を傷けたために、母が感じてゐる苦悶、さうしたものが美奈子に、ヒシ/\と感ぜられた、自分をこれほど迄、愛して呉れる母には、自分も凡てを犠牲にしてもいゝと思つた。
「お母様! もう何も、仰しやつて下さいますな、妾《わたし》、青木さんのことなんか、ほんたうに何でもないのでございます。」
美奈子は、白い頬を夜目にも、分るほど真赤にしながら、恥かしげにさう云つた。
「いゝえ! 何でもないことはありません。処女の初恋は、もう二度とは得がたい宝玉です。初恋を破られた処女は、人生の半《なかば》を蹂み潰されたのです。美奈さん、妾《わたし》にはその覚えがあります。その覚えがあります。」
さう云つたかと思ふと、あれほど気丈な凜々しい瑠璃子も、顔に袖を掩うたまゝ、しばらく咽《むせ》び入つてしまつた。
「妾《わたし》には、その覚えがありますから、貴女のお心が分るのです。身に比べてしみ[#「しみ」に傍点]/″\と分るのです。」
母にさう云はれると、今まで抑へてゐた美奈子の悲しみは、堤を切られた水のやうに、彼女の身体を浸した。彼女の烈しいすゝり泣きが、瑠璃子の低いそれ[#「それ」に傍点]を圧してしまつた。
瑠璃子までが、昔の彼女に帰つたやうに、二人はいつまでも/\泣いてゐた。
が、先に涙を拭つたのは、美奈子だつた。
「お母様! 貴女は、決して妾《わたくし》にお詫をなさるには、当りませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。妾《わたくし》の父です。お母様の初恋を蹂躙した父の罪が、妾《わたくし》に報いて来たのです。父の犯した罪が子の妾《わたくし》に報いて来たのです。お母様の故《せゐ》では決してありませんわ。」さう云ひながら、美奈子はしく/\と泣きつゞけてゐたが、「が、妾《わたくし》今晩、お母様の妾《わたくし》に対するお心を知つてつくづく思つたのです。お母様さへ、それほど妾《わたくし》を愛して下されば、世の中の凡ての人を失つても妾《わたくし》は淋しくありませんわ。」
さう云ひながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母の傍にすり寄つた。瑠璃子は、彼女の柔かいふつくりとした撫肩を、白い手で抱きながら云つた。
「本当にさう思つて下さるの。美奈さん! 妾《わたし》もさうなのよ。美奈さんさへ、妾《わたし》を愛して下されば、世の中の凡ての人を敵にしても、妾《わたし》は寂しくないのです。」
二人は浄い愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇に、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。
火を煽る者
一
青年の身体は、燃えた。
烈しい憤怒と恨みとのために、火の如く燃え狂つた。
彼は、その燃え狂ふ身体を、何物かに打ち突けたいやうな気持で走つた。闇の中を、滅茶苦茶に走つた。闇の中を、礫《つぶて》のやうに走つた。滅茶苦茶に、走りでもする外、彼の嵐のやうな心を抑へる方法は何もなかつた。樹にでも、石にでも、当れば当れ、川にでも渓《たに》にでも陥らば陥れ、彼はさうした必死的《デスペレエト》な気持で、獣のやうに風のやうに、たゞ走りに走つた。
強羅の電車停留所まで、一気に馳け降りたけれども、其処には電車の影は、なかつた。彼は、そこに二三分間待つたが、心の底から沸々《ふつ/\》と湧き上つてゐる感情の嵐は、彼を一分もぢつとさせてゐなかつた。電車を待つてゐるやうな心の落着は、少しもなかつた。彼は、宮の下まで、走りつゞけようと決心した。さう決心すると、前よりは、もつと烈しい勢で、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に馳け始めた。
初め馳けてゐる間、彼の頭には、何もなかつた。たゞ、彼をあんなに恥《はづか》しめた瑠璃子の顔が、彼の頭の中で、大きくなつたり、小さくなつたり、幾つにも分れて、巴《ともゑ》のやうに渦巻いたりした。
が、だん/\走りつゞけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労から来る落着が、彼の狂ひかけてゐた頭を、だん/\冷静にしてゐた。
彼の走る速力が緩むのと同時に、彼の頭は、だん/\いろ/\な事を考へ初めてゐた。
彼が、死んだ兄と一緒に、荘田の家へ、出入し初めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮んで来た。
荘田夫人の美しい端麗な容貌や、その溌剌として華やかな動作や、その秀れた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行つた頃の思ひ出が、後から/\頭の中に浮んで来た。
夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分達兄弟を愛して呉れたこと、従つて自分達も、頻りに夫人の愛を求めたこと、その中に、兄が夫人に熱狂してしまつたこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、兄が自分に対して軽い嫉妬を感じたこと、さうしたことが、とりとめもなく、彼の頭の中に浮んだ。
実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛を懐いてゐることを知つたとき、彼は兄に対する遠慮から心ならずも、夫人に対する愛を抑へてゐた。
突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡の兄に対する遠慮を取り去つた。彼は、兄に対する遠慮から、抑へてゐた心を、自由に夫人に向つて放つた。
夫人は、それを待ち受けてゐたやうに、手をさし延べて呉れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽ち接近せしめてしまつた。
彼は、夫人から、蜜のやうな甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛してゐて呉れることを、疑ふ余地は、少しもなかつた。
彼は直截に夫人に結婚を求めた。
「妾《わたし》も、ぜひさうしていたゞきたいのよ。でも、もう少し考へさせて下さいよ。貴君《あなた》、箱根へ一緒に行つて下さらない。妾《わたし》、此の夏は、箱根で暮さうと思つてゐますのよ。箱根へ行つてから、ゆつくり考へてお答へしますわ。」
夫人は、美しい微笑でさう云つた。
箱根へ同行を誘つて呉れる! それは、もう九分までの承諾であると彼は思つた。
箱根に於ける避暑生活は、彼に取つて地上の極楽である筈であつた。
思ひきや、其処に地獄の口が開かれてゐようとは。
「裏切者め!」
青年は、走りながら、思はず右の手のステッキを握りしめた。
二
ホテルの門に辿り着いたときにも、長い道を馳け続けたために、身体こそやゝ疲れてゐたものの、彼の憤怒は少しも緩んではゐなかつた。部屋へ飛び込めば、直ぐ鞄《トランク》の中へ、凡てのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には一分だつてゐたくない。彼女が、帰つて来ない裡に、一刻も早く去つてしまふのだ。
彼は心の裡で、さうした決心を堅めながら、烈しい勢で、玄関へ駈け上つた。其処に立つてゐたボーイが、彼の面色《めんしよく》を見ると、駭《おどろ》いて目を眸《みは》つた。それも、無理はなかつた。彼の眼は血走り、色は蒼ざめ、広い白い額に、一条の殺気が迸つて、温和な上品な平素の彼とは、別人のやうな、血相を示してゐたからである。が、ボーイが、駭かうが駭くまいが、そんなことはどうでもよかつた。彼は駭いたボーイを尻目にかけながら、廊下を走るやうに馳け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、烈しく駆け上らうとしたときだつた。彼は余りに急いだため、余りに夢中であつたため、丁度その時、上から降りようとした人に、烈しく打《ぶ》つ衝《つか》つてしまつた。
余りに強く衝《つ》き当つたため、彼の疲れてゐた身体は、ひよろ/\として、二三段よろけ落ちた。
「いやあ。失礼!」
相手の人は、駭いて彼を支へた。が、衝突の責任は、無論|此方《こつち》にあつた。
「いゝえ。僕こそ。」
彼は、さう答へると、軽く会釈したまゝで、相手の顔も、碌々見ないで、そのまゝ階段を馳け上つた。
が、彼が六七段も、馳け上つたときだつた。まだ立ち止まつて、ぢつと彼の後姿を見てゐた相手の男が、急に声をかけた。
「青木君! 青木君ぢやありませんか。」
不意に、自分の名を呼ばれて、青年は駭いた。彼は、思はず階段の中途に、立ち竦んでしまつた。
「えゝつ!」
青年は、返事とも駭きとも分らないやうな声を出した。
「間違つてゐたら御免下さい! 貴君は、青木君ぢやありませんか。あの、青木淳君の弟さんの。」
相手は、階段の下から、上を見上げながら、落着いた声でさう訊いた。青年は、やゝほの暗い電燈の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それは先刻散歩へ出るときに、玄関で逢つた、彼の見知らない紳士であつた。彼は、どうして此の男が、自分の名前を知つてゐるのだらうかと、不審に思ひながら答へた。
「さうです。青木です。ですが、貴君は……」
青年は、一寸相手が、無作法に呼び止めたことを咎めるやうに訊き返した。
「いや、御存じないのは、尤もです。」
さう云ひながら、紳士は階段を二三段上りながら、青年に近づいた。
「お兄さんの知人と云つても、ホンのお知合になつたと云ふ丈《だ》けに過ぎないのですが、然しその……」
紳士は、一寸云ひ澱んだ。
青年は、自分がいら[#「いら」に傍点]/\し切つてゐるときに、何の差し迫つた用もなささうな人から、たゞ兄の知人であると云つた理由|丈《だけ》で、呼び止められるのに堪へなかつた。
「さうですか。それでは、又いづれ、ゆつくりとお話しませう。一寸只今は、急いでゐますから。」
さう云ひ捨てると、青年は振り切るやうに、残つた階段を馳け上らうとした。
すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。
「あゝ一寸お待ち下さい。私も急に、貴君にお話したいことがあるのです。」
三
「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく云はれると、青年はむつ[#「むつ」に傍点]とした。何と云ふ執拗な男だらう。何と云ふ無礼な男だらうと腹立たしかつた
前へ
次へ
全63ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング