人だと思つて、近づいたのは、僕の誤りでした。僕に、下さつた貴女《あなた》の愛の言葉を、貴女の真実だと思つたのが、僕の誤りでした。真実の愛を以て、貴女の真実な愛を購ふことが出来ると思つたのは、僕の間違《まちがひ》でした。奥さん! 貴女は、あらゆる手段や甘言で、僕を誘惑して置きながら、僕が堪らなくなつて、結婚を申し込むと、それを恐ろしい侮辱で、突き返したのです。此恨みは、屹度《きつと》晴らしますから、覚えてゐて下さい。覚えてゐて下さい。」
 青年は、狂つたやうに、瑠璃子を罵りつゞけた。
 瑠璃子は、青年の罵倒を、冷然と聞き流してゐたが、青年の声が、漸く絶えた頃に、やつと口を開いた。
「青木さん! 貴君《あなた》のやうに、さう怒るものぢやなくつてよ。妾《わたし》の貴君に対する愛が、丸切り嘘だと云ふのは、余りヒドいと思ひますわ。妾《わたし》が、貴君を愛してゐることは本当ですわ。たゞ、その愛は夫に対するやうな愛ではなくて、弟に対するやうな愛なのです。妾《わたし》、昨日今日考へて、やつとそれが分つたのです。妾《わたし》、貴君を弟に持ちたいと思ふわ。が、貴君を夫にしようとは、夢にも思つたことはないわ。が、夫以外の一番親しいものとして、妾《わたし》貴君に何時までも、何時までも、交際《つきあ》つていたゞきたいと思ふのよ。ねえ! 美奈さん。貴女に妾《わたし》の心持は分らない!」
 瑠璃子は、意味ありげに、美奈子を顧みた。今まで少しも、分らなかつた今夜の瑠璃子の心持が、闇の中に、一条の光が生れたやうに、美奈子にもほの[#「ほの」に傍点]/″\と分つて来たやうに思へた。

        五

 美奈子には、母の心持が、朝霧の野に、日の昇るやうに、やうやく明かになつて来た。
 母は自分の心持をスツカリ気付いたのだ。青年に対する自分の心持をスツカリ知つて了つたのだ。
 母が、自分の面前で、何のにべ[#「にべ」に傍点]もないやうに、青年を斥けたのも、みんな自分に対する義理なのだ。自分に対する母の好意なのだ。自分に対する母の心づくしなのだ。さう思ふと、烈しい恥かしさを感じながら、母に対する感謝の心が、しみ/″\と、胸の底深くにじん[#「にじん」に傍点]で出た。
 母は、やつぱり自分を愛して呉れる、自分のためには、どんなことでも、しかねないのだ。さう思ふと、美奈子は、母に対して昨日今日、少しでも慊らなく思つたことが、深く悔いられた。
 母の心持は、もつと露骨になつて来た。
「青木さん。貴君《あなた》が、妾《わたし》と結婚なさらうなんて、それは一時の迷ひです。貴君のお若い心の一時の出来心《ウィム》です。貴君には妾《わたし》の心が少しも分つてゐないのです。いゝえ、妾《わたし》の本体が少しも分つてゐないのです。妾《わたし》の心が、どんなに荒《すさ》んでゐるかそれが貴君には、少しも分つてゐないのです。妾《わたし》が、貴君を本当に愛してゐるかどうかさへ、貴君には分らないのです。さう/\、ワイルドの警句に、『結婚の適当なる基礎は相方《さうはう》の誤解なり。』と云ふ皮肉な言葉がありますが、貴君の妾《わたし》に対する、結婚申込なんか、本当に貴君の誤解から出てゐるのです。」
 青年には、瑠璃子の言葉などは、少しも耳に入つてゐないやうだつた。彼は、烈しい怒《いかり》のために、口が利けなくなつたやうに、たゞ身体を顫はせてゐる丈《だけ》だつた。
 が、そんなことは少しも意に介せないやうに、瑠璃子は落着いた口調で、話しつゞけた。
「貴君《あなた》は、妾《わたし》の心持が分らないばかりでなく、貴君に対する誰の心持も分つてゐないのです。貴君には、まだ、本当に人の心が分らないのです。真珠のやうな美しい――いゝえ、どんな宝石にも換へがたいやうな、美しい心を持つた処女が、貴君に恋しても、貴君には、それが分らないのです。貴君はもつと足を地上に降して、しつかり物を見なければならないと思ひます。」
 美奈子は、母の言葉を聴くと、地の中へでも消えてしまひたいやうな恥かしさと、母の自分に対する真剣な心づくしに対する有難さとで、心の中が一杯になつてしまつた。
 が、茲《こゝ》まで黙つて聴いてゐた青年は、憤然として、立ち上つた。
「奥さん! もう沢山です。貴女は、僕を散々恥しめて置きながら、此の上何を仰しやらうと云ふのです。男として、堪へられないやうな恥辱を僕に与へて置きながら、此上何を云はうと仰しやるのです。貴女に対する僕の要求は、全か無かです。弟に対する愛、そんな子供だまし[#「だまし」に傍点]のやうなお言葉で、いつまで僕を操らうとなさるのです。奥さん、僕はこれで失礼します。二度と貴女には、お目にかゝらない心算《つもり》です。男性に対する貴女の態度が、何時まで天罰を受けずにゐるか外《よそ》ながら拝見してゐるつもりです。僕の貴女に対する恋、それは、僕に取つては初恋です。大切な懸命な初恋でした、凡てを犠牲にしてもいゝと思つた初恋です。が、それが……」
 青年は、茲《こゝ》まで云ふと、自分自身で、こみ上げて来る口惜しさに堪へ切れなくなつたやうに、ハラ/\と涙を落した。
「……それが貴女のために、ムザ/\と蹂み躙られてしまつたのだ。覚えていらつしやい! 奥さん。」
 彼は、自分の感情を抑へ切れなくなつたやうに、かう叫んだ。
 立つてゐる華奢な長身が、いたましくわなわな[#「わなわな」に傍点]と顫へて、男泣きの涙が、幾条《いくすぢ》となく地に落ちた。先刻《さつき》から美奈子は、青年の容子を見てゐるのに、堪へないやうに、目を伏せてゐたが何と思つたのか此時ふと顔を上げた。
「お母様!」
 彼女はかすれたやうな声で、初めて口を開いた。

        六

「お母様!」
 さう叫んだ美奈子の言葉には、思ひ切つた処女の真剣さが、籠つてゐた。
「お母様、あのう、もう一度、どうぞもう一度、ゆつくりお考へ下さいませ。青木さんが何《ど》う仰しやつたのか知りませんが、もう一度考へ直して下さいませ。妾《わたくし》、妾……」
 美奈子は、もつと何か云ひたさうだつたが、烈しい興奮のために、胸が迫つたのだらう、そのまゝ口籠つてしまつた。
 去りかけようとした青年は、美奈子の言葉を聴くと、一寸ためらひながら、美奈子の方を振り返つた。
「美奈子さん。貴女の御厚意は、大変有難うございます。が、もう凡ては終つたのです。僕の心は、蹂み躙られたのです。僕の心には、今悲みと怨みとがあるばかりです。さやうなら、貴女には、いろ/\失礼しました。」
 さう云ひ捨てると、青年は弾かれたやうに、身体を飜すと、緩い勾配の芝生の道を、一気に二十間ばかり、馳け降りると、その白い浴衣《ゆかた》を着た長身で、公園の闇を切る姿を見せてゐたが、直ぐ樹立の蔭に見えずなつた。
 美奈子は、淋しみとも悲しみとも、あきらめ[#「あきらめ」に傍点]とも付かぬ心で、消えて行く青年の姿を追うてゐた。
 瑠璃子も、一寸青年の後姿を見てゐたやうだつたが、直ぐ思ひ返したやうに立ち上ると、美奈子の傍に寄つて来て、すれ/\に腰をかけた。
「美奈子さん! 駭いて?」
 軽く左の手を、美奈子の肩にかけながら、優しく訊いた。
「はい。青木さんが、お気の毒でございますわ。」
 美奈子は、消え入るやうな声で云つた。彼女は暫く考へてゐたが、
「青木さんなんかよりも、妾《わたし》美奈さんに済まないと思つてゐますの。どうぞ、堪忍して下さい。どうぞ。」
 母の声には、深い本心が、アリ/\と動いてゐた。美奈子でさへ、一度も聴いたことのないやうなしんみりとした、心の底からにじみ出たやうな声だつた。
「美奈さん。間違つてゐたら、御免なさい。妾《わたし》、貴女のお心が分つたの。青木さんに対する貴女のお心が。」
 さう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サツと色を変へながら、うつ伏してしまつた。
「美奈さん、貴女《あなた》は、一昨日の晩、妾《わたし》と青木さんとが、話したことをすつかり、お聴きになつたのでせう。いゝえ、貴女がお聴きになつたのではなく、貴女がいらつしやるとは知らずに、妾《わたし》達がいろ/\なことを話しましたでせう。妾《わたし》、あの晩部屋へ帰らうとして、外出なさらうとする貴女のお顔を見たときに、もう凡てが分つたやうな気がしたのです。絶望その物のやうな貴女のお顔を見て、妾《わたし》は、凡てが分つたやうな気がしたのです。妾《わたし》は、それまでにもしやと思つたことが、一二度あつたのです。そのもしや[#「もしや」に傍点]が、本当だと云ふことが分ると、妾《わたし》は、大変なことが起つたと思つたのです。妾《わたし》の犯した失策が、取り返しのつかないものだと云ふことを知つたのです。」
 母の言葉が、ます/\真剣な悲痛な響を帯びて来た。
 美奈子は、俎上に上つたやうな心持で、母の言葉をぢつと聴いてゐる外はなかつた。恥かしさと悲しさとで、裂けるやうな胸を持ちながら。
「妾《わたし》、今度のことで、妾《わたし》の生活が全然破産したことを知つたのです。男性に向つて吐いた唾が、自分に飛び返つて来たことを知つたのです。どうか、美奈さん。妾《わたし》の懺悔を聴いて下さい。」
 快活な、泣き言などは、ちつとも云つたことのない母の声が、悲しみに湿《うる》んでゐた。

        七

「青木さんなんかに、妾《わたし》初めから、何の興味も持つてゐなかつたのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、妾《わたし》のホンの意地からなのです。ある別な男の方に対する妾《わたし》の意地からなのです。ある男の方が、妾《わたし》に、青木さん丈《だ》けは、誘惑して呉れては困ると言つたやうな、おせつかいなことを言つたものですから、妾《わたし》はつい反抗的に、意地であの方を箱根へ連れて来たくなつたのです。外《よそ》ながら、そのおせつかいな人に思ひ知らせて、やりたくなつたのです。美奈子さん、それが妾《わたし》の性分なのです。今までの妾《わたし》の生活、貴女のお家へ来たことなども、みんな妾《わたし》のさう云つた性分が、妾《わたし》を動かしたのです。」
 母は何時になく、しんみりとした沈んだ調子になつてゐた。短い沈黙の後で、母は再び口を開いた。
「それは、自分でも何うともすることが出来ない性分です。誰かから抑へられると、その二倍も三倍もの烈しさで、跳《はね》返したいやうな気になるのです。それが、妾《わたし》の性格の致命的《フェータル》な欠陥かも知れません。妾《わたし》は自分のさうした性分のために、自分の一生を犠牲にしたのではないかとさへ、此頃考へてゐるのです。」
 母は、かう言つて悵然《ちやうぜん》[#ルビの「ちやうぜん」は底本では「ちやうだん」]としたが、また直ぐ言葉を続けた。
「子供が、触つてはいけないと言はれた草花に、却つて触りたくなるやうな心持で、青木さんを、わざと箱根へ連れて来たのです。あの人に何の興味があつたと云ふ訳でもないのです、おせつかいなことを言つた人に対する意地で、ついそんなことをしてしまつたのです。それから、恐ろしい罰を受けようとは夢にも知らなかつたのです。」
 母の言葉は、沈み切つてゐた。強い悔《くい》が、彼女の心を苛んでゐることを示してゐた。
「妾《わたし》の想像が違つたら、御免下さい。貴女の清浄《しやうじやう》な純な心に映つた男性を妾《わたし》が奪ふと云ふ恐ろしいことをしてゐたのです。美奈さん! 許して下さい。美奈さん。」
 涙などは、今まで一度も流したことのない母の声が、湿《うる》んでゐた。
「貴女に対して、何とお詑びしていゝか分らないのです。貴女の心に萌んだ美しい想《おもひ》の芽を妾《わたし》が蹂躙してゐようとは、妾《わたし》が! 貴女を何物よりも愛してゐる妾《わたし》が。」
 瑠璃子の眼に、始めて涙が光つた。
「取り返しの付かない、恐ろしいことです。妾《わたし》が、たゞホンの悪戯《いたづら》のために、ホンの意地の為めに、宝石にも換へがたい貴女の純な感情を蹂み躙つてゐようとは、思ひ出す丈《だけ》でも、妾《わたし》の心
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