子は、何だかその不知人《ストレンジャー》が、気になつたが、母に訊くことが、悪いやうに思つて、何うしても口に出せなかつた。すると、ホテルの門を出た頃に、先刻から黙つてゐた青年が初めて瑠璃子に口を利いた。
「一体今の人は誰です。御存じぢやありませんか。」
「いゝえ! ちつとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑しな人ですわね。妾《わたし》達を、ぢつと見詰めたりなんかして。」
 瑠璃子は、何気なく云つたらしかつた。が、声が平素《いつも》のやうに、澄んだ自信の充ち満ちた声ではなかつた。
「さうですか、御存じないのですか。でも、先方は、僕達のことをよく知つてゐるやうですねえ。」
 青年は、不審《いぶか》しげにさう云つた。が、瑠璃子は、聞えないやうに返事をしなかつた。
 三人は、底気味の悪い沈黙を、お互の間に醸《かも》しながら、宮の下の停留場から、強羅行の電車に乗つた。
 が、電車に乗つても、三人は散歩に行くと云つたやうな気持は少しもなかつた。美奈子は、人身御供にでもなつたやうな心持で、たゞ母の意志に従つてゐると云ふのに過ぎなかつた。
 青年は、無論最初から滅入つてゐた。大事な返事を体よく延ばされたことが、彼にとつては、何よりの打撃であつたのだ。彼が楽しんでゐる筈はなかつた。
 瑠璃子も、最初は二人を促して、散歩に出たのであつたが、玄関で紳士に逢つてからは、隠し切れぬ暗い翳が、彼女の美しい顔の何処かに潜んでゐるやうだつた。
 夜の箱根の緑の暗《やみ》を、明るい頭光《ヘッドライト》を照しながら、電車は静かな山腹の空気を顫《ふるは》して、轟々と走りつゞけたかと思ふと直ぐ終点の強羅に着いてゐた。
 電車を去つてから、可なり勾配の急な坂を二三町上ると、もう強羅公園の表門に来た。
 電車が、強羅まで開通してからは、急に別荘の数が増し、今年の避暑客は可なり多いらしかつた。
 公園の表門の突き当りにある西洋料理店《レストラン》の窓から、明るい光が洩れ、玉を突いてゐるらしい避暑客の高笑ひが、絶え間なく聞えてゐた。
 夜の公園にも、涼を求めてゐるらしい人影が、彼方《かなた》にも此方《こなた》にもチラホラ見えた。

        二

 三人は、西洋料理店《レストラン》の左から、コンクリートで堅めた水泳場の傍《かたはら》を通つて、段々上の方に登つて行つた。
 公園は、山の傾斜に作られた洋風の庭園であつた。箱根の山の大自然の中に、茲《こゝ》ばかり一寸人間が細工をしたと云つたやうな、こましやくれ[#「こましやくれ」に傍点]た、しかし、厭味のない小公園だつた。
 園の中央には、山上から引いたらしい水が、噴水となつて迸つて、肌寒いほどの涼味を放つてゐた。
 三人は、黙つたまゝ園内を、彼方此方《あちらこちら》と歩いた。誰も口を利かなかつた。皆が、舌を封ぜられたかのやうに、黙々としてたゞ歩き廻つてゐた。
 三人が、少し歩き疲れて、片陰の大きい楢の樹の下の自然石の上に、腰を降した時だつた。先刻から一言も、口を利かなかつた瑠璃子が、突然青年に向つて話し出した。しかも可なり真剣な声で。
「青木さん! 此間のお話ね。」
 青年は、瑠璃子が何を云つてゐるのか、丸切《まるき》り見当が付かないらしかつた。
「えつ! えつ!」彼は可なり狼狽したやうに焦つてゐた。
「此間のお話ね。」
 瑠璃子は、再びさう繰り返した。彼女の言葉には、鋼鉄のやうな冷たさと堅さがあつた。
「此間の話?」
 青年は、如何にも腑に落ちないと云つたやうに、首を傾げた。
 丁度その時、美奈子は母と青年との真中に坐つてゐた。自分を、中央にして、自分を隔てゝ母と青年とが、何だかわだかまりのある話をし始めたので、彼女は可なり当惑した。が、彼女にも母が、一体何を話し出すのか皆目見当が付かなかつた。
「お忘れになつたの。先夜のお話ですよ。」
 瑠璃子の声は、冗談などを少しも意味してゐないやうな真面目だつた。
「先夜つて、何時のことです。」青年の声が、だん/\緊張した。
「お忘れになつたの? 一昨日《をとゝひ》の晩のことですよ。」
 青年が色を変へて駭いたことが、美奈子にもハツキリと感ぜられた。美奈子でさへ、あまりの駭きのために、胸が潰れてしまつた。母は、果して一昨日の夜のことを、美奈子の前で話さうとしてゐるのかしら、さう思つた丈《だけ》で、美奈子の心は戦《をのゝ》いた。
「一昨日の晩!」青年の声は、必死であつた。彼は一生懸命の努力で続けて云つた。
「一昨日の晩? 何か特別に貴女《あなた》とお話をしたでせうか。」
 必死に、逃路《にげみち》を求めてゐるやうな青年の様子が、可なり悲惨だつた。美奈子は、他人事ならず、胸が張り裂けるばかりに、母が何と云ひ出すかと待つてゐた。
「お忘れになつたの。」
 瑠璃子は、静《しづか》に冷たく云つた。冗談を云つてゐるのでもなければ、揶揄《からか》つてゐるのでもなければ、じら[#「じら」に傍点]してゐるのでもなかつた。彼女も、今夜は別人のやうに真面目であつた。
「忘れる? 一昨日の晩!」青年は首を傾げる様子をした。が、彼の態度は如何にも苦しさうであつた。「僕には、ちつとも解りません。一昨日の晩、僕が何か申上げたでせうか。」
 青年の声は、わな/\と顫へた。彼はその言葉を、瑠璃子に投げ付けるやうに云つた。
 が、その投げ付けたつもりの言葉の裡に、みじめ[#「みじめ」に傍点]な哀願の調子が、アリ/\と響いてゐた。
 青年の哀願の調子を跳ね付けるやうに、瑠璃子の言葉は、冷たく無情だつた。
「一昨日の晩のお話のお返事を、妾《わたし》今夜致さうと思ひますの。」
 風が、少し出た故《せゐ》だらう、冷たい噴水の飛沫が三人の上に降りかゝつて来た。

        三

 瑠璃子の言葉は、これから判決文を読み上げようとする裁判長の言葉のやうに、峻厳であつた。
 青年は瑠璃子の言葉を聴くと、もう黙つてはゐられなかつた。『抜く抜く』と云ふ冗談が、本当の白刃になつたやうに、彼はもうそれを真正面から受止める外はなかつた。
「奥さん、貴女《あなた》は何を仰しやるのです。貴女は、お約束をお忘れになつたのですか。あれほど僕がお願ひしたお約束をお忘れになつたのですか。」
 美奈子が、真中にゐることも、もうスツカリ忘れたやうに、青年は我を忘れて激昂した。興奮に湧き立つた温かい呼吸《いき》が、美奈子の冷い頬に、吐き付けられた。
「お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると云つてゐるのぢやありませんか。」
「何! 何! 何と仰しやるのです。」
 青年はスツクと立ち上つた。もう美奈子を隔てゝ、話をするほどの余裕もなくなつたのであらう、彼は、烈しく瑠璃子の前に詰めよつた。
 美奈子は、浅ましい恐ろしい物を見たやうに、面《おもて》を伏せてしまつた。
「奥さん! 貴女《あなた》は、貴女は何を仰しやるのです。僕! 僕! 僕が、一昨夜申上げたこと、あのお返事を今、なさらうとするのですか。あの、あのお返事を!」
 激しい興奮のために、彼の身体は顫へ、彼の声は裂け、彼の言葉は咽喉にからんで、容易には出て来なかつた。
「まあ! お坐りなさい! さう、貴君《あなた》のやうに興奮なさつては、話が、ちつとも分らなくなりますわ。まあ! 坐つてお話しなさいませ。妾《わたし》、今夜はよくお話したいと思ひますから。」
 瑠璃子の態度は、水の如く冷たく澄んでゐた。たしなめ[#「たしなめ」に傍点]られて、青年は不承々々に元の席に復したが、彼の興奮は容易には去らない。彼は火のやうに、熱い息を吐いてゐた。
「坐ります。坐ります。が、あのお話を、今|茲《こゝ》でなさるなんて、あんまりではありませんか。あれは、僕|丈《だけ》の私事です。私事的《プライヴェート》な事です。それを今茲でお話しになるなんて、あんまりではありませんか。あの晩、僕が何と申上げたのです。あの晩申上げた事を、貴女は覚えてゐて下さらないのですか。」
 青年は、美奈子が聴いてゐることなどは、もう介意《かま》つてゐられないやうに、熱狂して来た。
 美奈子は、真中でぢつと聴いてゐるのに堪へられなくなつて来た。彼女は、勇気を鼓舞しながら、口を開いた。
「あのう、お母様! 妾《わたくし》は一寸失礼させていたゞきたいと思ひますわ。お話が、お済みになつた頃に帰つて参りますから。」
 美奈子は、皮肉でなく真面目にさう云はずにはゐられなかつた。
 溺れる者は、藁をでも掴むやうに、青年はもう夢中だつた。
「さうです。奥さん! もし貴女《あなた》が、あの晩の話のお返事をして下さるのなら、失礼ですが、美奈子さんに、一寸失礼させていたゞきたいのです。あれは、僕の私事です。あのお返事なら、僕一人の時に承はりたいのです。」
 興奮した青年に、水を浴せるやうに、瑠璃子は云つた。
「いゝえ! 妾《わたし》、美奈さんにも、是非とも聴いていたゞきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合つていたゞきたいと思つたのです。あんなお話は、二人切りで、すべきものではないと思ひますもの。たゞさへ、妾《わたし》色々な風評の的になつて、困つてゐるのですもの。あゝいふお話はなるべく陰翳の残らないやうに、ハツキリと片を付けて置きたいと思ひますの。ねえ、美奈さん、貴女このお話の、証人《ウイットネス》になつて下さるでせうねえ。」
「あ! 奥さん! 貴女《あなた》は! 貴女は!」
 青年は、狂したやうに叫びながら立ち上ると、続けざまに、地を踏み鳴らした。

        四

 青年が、狂気したやうに、叫び出したのにも拘はらず、瑠璃子は、冷然として、語りつゞけた。
「美奈さん、貴女《あなた》には、お話《はなし》しなかつたけれども、妾《わたし》青木さんから、一昨日の晩、突然結婚の申込を受けたのです。さうして、それに対する諾否のお返事を、今晩しようと云ふお約束をしたのです。結婚の申込を直接受けたことを、妾《わたし》本当に心苦しく思つてゐるのです。せめて、お返事をするとき丈《だけ》でも貴女《あなた》に立ち合つていただきたいと思ひましたの。」
 美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目分らなかつた。たゞ、彼女にも、ボンヤリ分つたことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聴きしたことを、母が気付いてゐると云ふことだつた。美奈子が、居堪《ゐたゝ》まれなくなつて逃げ出したときの後姿を、母が気付いたに違ひないと云ふことだつた。
 さう思ふと、自分の心持が、明敏な母に、すつかり悟られてゐるやうに思はれて、美奈子は一言も返事をすることさへ出来なかつた。
 青年の顔は、真蒼になつてゐた。眼ばかりが、爛々と暗《やみ》の中に光つてゐた。
「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! 妾《わたし》、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よく/\考へて見ましたところ、貴君《あなた》のお申出《まうしいで》に応ずることが出来ないのでございます。」
 瑠璃子の言葉に、闘牛が、止《とゞ》めの一撃を受けたやうに、青年の細長い身体が、タヂ/\と後へよろめいた。
 彼は、両手で頭を抱へた。身体を左右に悶えた。呟きとも呻きとも付かないものが口から洩れた。
 美奈子は、見てゐるのに堪へなかつた。もし、母が傍にゐなかつたら、走り寄つて、青年の身体を抱へて、思ふさま慰めてやりたかつた。
 二分ばかり、青年の苦悶が続いた。が、彼はやつと、その苦悶から這ひ上つて来た。
 母から受けた恥辱のために、彼の眼は血走り、彼の眥《まなじり》は裂けてゐた。
「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を恥しめるのです。僕がそつとお願ひしたことを、美奈子さんの前で、貴女《あなた》にはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、恥しめるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんな辱しめを受けたことはありません。」
 青年は、血を吐くやうに叫んだ。青年の言葉は、恨みと忿《いかり》のために狂ひ始めてゐた。
「貴女は、妖婦です、僕は敢て、さう申上げるのです。貴女を、貴婦
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