るわ。ねえ、後生だから、訳を云つて下さいね。」
さう云つてゐる母の声に、烈しい愛と熱情とが、籠つてゐることを、疑ふことは出来なかつた。
五
その夜は、美奈子も強ひて争ひかねて、重い足を返しながら、部屋へ帰つて来た。
翌日になると、夜が明けるのを待ち兼ねてゐたやうに、美奈子は母に云つた。
「お母様、妾《わたし》葉山へ行つて来ようかと思つてゐるの。兄さんにも、随分会はないから、どんな容子だか、妾《わたし》見て来たいと思ふの。」
が、母は許さなかつた。美奈子の容子が、何となく気にかゝつてゐるらしかつた。
「もう二三日してから行つて下さいね。それだと、妾《わたし》も一緒に行くかも知れないわ。箱根も妾《わたし》何だか飽き/\して来たから。」
その日一杯、平素は快活な瑠璃子は、妙に沈んでしまつてゐた。青年には、口一つ利かなかつた。美奈子にも、用事の外は、殆ど口を利かなかつた。たゞ一人、縁側《ヴェランダ》にある籐椅子に、腰を降しながら、一時間も二時間も、石のやうに黙つてゐた。
瑠璃子の態度が、直ぐ青年に反射してゐた。瑠璃子から、口一つ利かれない青年は、所在なささうに、主人から嫌はれた犬のやうに、部屋の中をウロ/\歩いてゐた。彼のオド/\した眼は、燃ゆるやうな熱を帯びながら、瑠璃子の上に、注がれてゐた。美奈子は、青年の容子に、抑へ切れぬ嫉妬を感じながらも、然し何となく気の毒であつた。犬のやうに、母を追うてゐる、母の一挙一動に悲しんだり欣んだりする青年の容子が、気の毒であつた。
その日は、事もなく暮れた。平素《いつも》のやうに、夕方の散歩にも行かなかつた。食堂から帰つて来ると三人は気まづく三十分ばかり向ひ合つてゐた後に、銘々自分の寝室に、まだ九時にもならない内に、退いてしまつた。
翌る日が来ても、瑠璃子の容子は前日と少しも変らなかつた。美奈子には、時々優しい言葉をかけたけれども、青年には一言も言はなかつた。青年の顔に、絶望の色が、段々濃くなつて行つた。彼の眼は、恨めしげに光り初めた。
到頭、夜が来た。瑠璃子と青年との間に、交された約束の夜が来た。
美奈子は、夜が近づくに従つて、青年が自分の存在を、どんなに呪つてゐるかも知れないと思ふと部屋にゐることが、何うにも苦痛になつて来た。
晩餐の食堂から、帰るときに、美奈子は、そつと母達から離れて、自分一人ホテルの図書室へでも行かうと思つた。さうすれば、青年は彼の希望通り、母とたつた二人|限《き》りで、散歩に行くことが出来るだらう。母も、自分に何の気兼なしに青年とたつた二人、散歩に出ることが出来るだらう。
美奈子は、さう思ひながら、そつと母達から離れる機会を待つてゐた。が、母は故意にやつてゐると思はれるほど、美奈子から眼を離さなかつた。美奈子は、仕方なしに、一緒に部屋へ帰つて来た。
部屋に帰つてから、暫くの間、瑠璃子は黙つてゐた。五分十分経つに連れて、青年がぢりぢりし初めたことが、美奈子の眼にも、ハツキリと判つた。而も、青年がいら/\してゐることが、自分がゐるためであると思ふと、美奈子は何《ど》うにも、辛抱が出来なかつた。自分が、青年の大事な大事な機会の邪魔をしてゐると思ふと、美奈子は何うにも、辛抱が出来なかつた。
「妾《わたくし》、お母様、図書室へ行つて来ますわ。一寸本が読みたくなりましたから。」
美奈子は、さう云つて、母の返事をも待たず、つか/\と部屋を出ようとした。
母は、駭いたやうに呼び止めた。
「図書室へ行くのなんかおよしなさいね。昨夕《ゆうべ》は出なかつたから、今日は散歩に出ようぢやありませんか。」
美奈子は、一寸駭いて足を止めた。ふと気が付くと、青年の顔は烈しい怒りのために、黒くなつてゐた。
六
美奈子は、母の真意を測りかねた。
母も、確《たしか》に青年とたつた二人|限《きり》、散歩する約束をした筈である。そして、あの大切な返事を青年に与へる約束をした筈である。それだのに、なぜ自分を呼び止めるのであらう。さうした機会を、彼等に与へようとして、席を外さうとする、自分を呼び止めるとは。
「えゝつ!」美奈子は、つい返事とも、駭きとも何とも付かぬ言葉を出してしまつた。
「ねえ! 図書室なんか、明日いらつしやればいゝのに。今夜は強羅公園へ行かうと思ふの。ねえ! いゝでせう。」
母はいつもよりも、もつと熱心に美奈子に勧めた。
「でも。」
美奈子は、躊躇した。彼女は、さうためらひながらも、青年の顔を見ずにはゐられなかつたのである。彼は、部屋の一隅の籐椅子に腰を下してゐたが、その白い顔は、烈しい憤怒のために、充血してゐた。彼は、爛々たる眸を、恨めしげに母の上に投げてゐたのである。美奈子は、さうした青年の容子を見ることが、心苦しかつた。彼女は、青年のために、心の動顛してゐる青年のためにも、母の勧めに、おいそれと従ふことは出来なかつた。
「いゝぢやありませんの。図書室なんか、今晩に限つたことはないのでせう。ねえ! いらつしやい。妾《わたし》お願ひしますから。」
母は、余儀ないやうに云つた。さう云はれゝば、美奈子は、同行を強ひて断るほどの口実は何もなかつた。たゞ彼女には、自分を極力同行せしめようとする母の真意が、何うしても分らなかつた。
「ねえ! 青木さん! 美奈さんと、三人でなければ面白くありませんわねえ。二人|限《きり》ぢや淋しいし張合がありませんわねえ!」
母は、青年に同意を求めた。
何もかも知つてゐる美奈子は、母のやり方が、恐ろしかつた。青年が、嫌ひだと云ふものを、グングン咽喉に押し込むやうな、母の意地の悪い逆な態度が、恐ろしかつた。美奈子は、ハラハラした。青年が、母の言葉を、何う取るかと思ふと、ハラ/\せずにはゐられなかつた。青年は、果してカツとなつたらしかつた。それかと云つて、美奈子の前では、何の抗議を云ふことも出来ないらしかつた。
「僕! 僕! 僕は、今日は散歩に行きたくありません。失礼します、失礼します。」
それが、青年の精一杯の反抗であつた。青年の顔は、今蒼白に変じ、彼の言葉は、激昂のために、顫へた。
「何故?」瑠璃子は詰問するやうに云つた。
「何故いらつしやらない。だつて、貴君は先刻《さつき》食堂で、今夜は強羅まで行かうと仰しやつたのぢやないの。今になつて、よさうなんて、それぢや故意に、妾《わたし》達の感情を害しようとなさつてゐるのだわ。」
青年は、唇をブル/\顫はした。が、美奈子の前では、彼は一言も、本当の抗議は云へなかつた。
『貴女は約束と違ふぢやありませんか。なぜ、美奈子さんをお連れになるのです。』それが、青年の心に、沸々《ふつ/\》と湧き立つてゐる云ひ分であつた。が、それを、何うして美奈子の前で口にすることが出来るだらう。
青年の、籐椅子の腕に置いてゐる手が、わなわな顫へるのに、美奈子は、先刻から気が付いてゐた。
母の皮肉な逆な態度が、どんなに青年の心を虐げてゐるかが、美奈子にもよく判つた。美奈子は、もう一度、青年を救つてやりたいと思つた。
「妾《わたくし》やつぱり、図書室へ参りますわ。今日急に、お関所の歴史が知りたくなりましたの。」
七
「お関所の歴史なんか、今夜ぢやなくてもいゝぢやないの。」
瑠璃子は、美奈子が、再度図書室へ行かうと云ふのを聴くと、少しじれ[#「じれ」に傍点]たやうに、さう云つた。
「何うして妾《わたし》と一緒に行くのが、お嫌ひなの。美奈さんも、青木さんも、今夜に限つて何うしてそんなに煮え切らないの。」
瑠璃子は、青年の火のやうな憤怒も、美奈子の苦衷も、何も分らないやうに、平然と云つた。
「ねえ! 美奈さん、お願ひだから行つて下さいね。貴女が、行きたがらないものだから、青木さんまでが、出渋るのですわ。ねえ! さうでせう、青木さん!」
弱い兎を、苛責《いぢ》める牝豹か何かのやうに、瑠璃子は何処までも、皮肉に逆に逆に出るのであつた。美奈子は、青年の顔を見るのに堪へなかつた。青年がどんなに怒つてゐるか、また美奈子がゐるために、その怒《いかり》を少しも洩すことが出来ない苦しさを察すると、美奈子は気の毒で、顔を背けずにはゐられなかつた。
瑠璃子には、青年の憤怒などは、眼中にないやうだつた。それでも、暫くしてから、青年をなだめ[#「なだめ」に傍点]るやうに云つた。
「さあ! 三人で機嫌よく行かうぢやありませんか。ねえ! 青木さん。何をそんなに、気にかけていらつしやるの。」
さう、可なり優しく云つてから、彼女は意味ありげに附け加へた。
「妾《わたし》此間中から、考へてゐることがあつて、くさ/\してしまつたの。散歩でもして、気を晴らしてから、もつとよく考へて見たいと思ふの。」
それは、暗に青年に対する云ひ訳のやうであつた。まだ、十分に考へが纏つてゐないこと、従つて今夜の返事を待つて呉れと云ふ意味が、言外に含まれてゐるやうだつた。
それを聴くと、青年の怒りは幾分、解けたらしかつた。彼は不承々々に椅子から、腰を離した。
美奈子も、やつと安心した。やつぱり、母は、真面目に、此二三日口も利かずに、青年の申出を、考へたに違ひない。それが、到頭纏りが付かないために、返事の延期を、青年にそれとなく求めたに違ひない。それを、青年が不承々々ではあるが、承諾した以上、今夜の約束を延ばされたのだ。さう思ふと、自分が母達に同伴することが、必ずしも青年の恋の機会の邪魔をすることではないと思ふと彼女は漸く同伴する気になつた。
三人は、それ/″\に、いつもよりは、少しく身拵《みごしらへ》を丁寧にした。
「往きと帰りは、電車にしませうね。歩くと大変だから。」
瑠璃子は、さう云ひながら、一番に部屋を出た。青年も美奈子も、黙つてそれに続いた。
三人が、ホテルの玄関に出て、ボーイに送られながら、その階段を降りようとしたときだつた。暮れなやむ夏の夕暮のまだほの明るい暗《やみ》を、煌々たる頭光《ヘッドライト》で、照し分けながら、一台の自動車が、烈しい勢で駈け込んで来た。
美奈子は、塔の沢か湯本あたりから、上つて来た外人客であらうと思つたので、あまり注意もしなかつた。
が、美奈子と一緒に歩いてゐた母は、自動車の中から、立ち現はれた人を見ると、急に立ち竦んだやうに目を眸《みは》つた。いつもは、冷然と澄してゐる母の態度に、明かな狼狽が見えてゐた。夕暗の中ではあつたが、美しい眼が、異様に光つてゐるのが、美奈子にも気が付いた。
美奈子も、駭いて相手を見た。母をこんなに駭かせる相手は、一体何だらうかと思ひながら。
一条の光
一
相手は、まだ三十になるかならない紳士だつた。金縁の眼鏡が、その色白の面《おもて》に光つてゐた。純白な背広が、可なりよく似合つてゐた。彼は一人ではなかつた。直ぐその後から、丸顔の可愛い二十《はたち》ばかりの夫人らしい女が、自動車から降りた。
美奈子は、夫婦とも全然見覚えがなかつた。
瑠璃子が、相手の顔を見ると、ハツと駭いたやうに、紳士も瑠璃子の顔を見ると、ハツと顔色を変へながら、立竦んでしまつた。
紳士と瑠璃子とは、互に敵意のある眼付を交しながら、十秒二十秒三十秒ばかり、相対して立つてゐた。それでも、紳士の方は、挨拶しようかしまいかと、一寸|躊躇《ためら》つてゐるらしかつたが、瑠璃子が黙つて顔を背けてしまふと、それに対抗するやうに、また黙つて顔を背けてしまつた。
が、瑠璃子から顔を背けた相手は、彼女の右に立つてゐる青年の顔を見ずにはゐなかつた。青年の顔を見たときに、紳士の顔は、前よりも、もつと動揺した。彼の駭きは、前よりも、もつと烈しかつた。彼は、声こそ出さなかつたが、殆んど叫び出しでもするやうな表情をした。
彼は、狼狽《あわて》たやうに瑠璃子の顔を見直した。再び青年の顔を見た。そして、青年の顔と瑠璃子の顔とを見比べると、何か汚らはしいものをでも見たやうな表情をしながら、妻を促して、足早に階段を上つてしまつた。
美奈
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