青年は、手軽く外されたために、ムツとして黙つたらしかつたが、然し、答そのものは、手答があるので、彼は暫くしてから、口を開いた。
「明後日! 本当に明後日までですか。」
「嘘は云ひませんわ。」
 瑠璃子の返事は、殊勝だつた。
「ぢや、そのお返事は何時聴けるのです。」
 青年の言葉に、やつと嬉しさうな響きがあつた。
「明後日の晩ですわ。」
 瑠璃子の本心は知らず、言葉|丈《だ》けにはある誠意があつた。
「明後日の晩、やつぱり二人切りで、散歩に出て下さいますか。貴女は、何時でも、美奈子さんをお誘ひになる。美奈子さんが、進まれない時でも、貴女は美奈子さんを、いろ/\勧めてお連れになる。僕がどんなに貴女と二人|切《きり》の時間を持ちたいと思つてゐる時でも、貴女は美奈子さんを無理にお勧めになるのですもの。」
 聴いてゐる美奈子は、もう立つ瀬がなかつた。彼女の頬には、涙がほろ/\と流れ出した。

        二

 美奈子さんを連れ過ぎると、青年が母に対して恨んでゐるのを聴くと、もう美奈子は、一刻も辛抱が出来なかつた。口惜しさと、恨めしさと、絶望との涙が、止めどもなく頬を伝つて流れ落ちた。自分が、心|私《ひそ》かに想《おもひ》を寄せてゐた青年から、邪魔物扱ひされてゐたことは、彼女の魂を蹂《ふ》み躙《にじ》つてしまふのに、十分だつた。もう一刻も、止まつてゐることは出来なかつた。逃げ出すために、母達に、見付けられようが、見付けられまいが、もうそんなことは問題ではなかつた。そんなことは、もう気にならないほど、彼女の心は狂つてゐた。彼女は、どんなことがあらうとも、もう一秒も止まつてゐることは出来なかつた。
 彼女は、それでも物音を立てないやうに、そつと椅子から、立ち上つた。立ち上つた刹那から、脚がわな/\と顫へた。一歩踏み出さうとすると、全身の血が、悉く逆流を初めたやうに、身体がフラ/\とした。倒れようとするのをやつと支へた。最後の力を、振ひ起した。わなゝく足を支へて、芝生の上を、静《しづか》に/\踏み占め、椅子から、十間ばかり離れた。彼女は、そこまでは、這ふやうに、身体を沈ませながら辿つたが、其処に茂つてゐる、夜の目には何とも付かない若い樹木の疎林へまで、辿り付くと、もう最後の辛抱をし尽したやうに、疎林の中を縫ふやうに、母達のゐる位置を、遠廻りしながら、ホテルの建物の方へと足を早めた。否馳け始めた。恐ろしい悪夢から逃げるやうに。恐ろしい罪と恥とから逃げるやうに。彼女は、凡てを忘れて、若い牝鹿のやうに、逃げた。
 夢中に、庭園を馳けぬけ、夢中に階段を馳け上り、夢中に廊下を走つて、自分の寝室へ馳け込むと彼女は寝台へ身体を瓦破《ぐわば》と投げ付けたまゝ、泣き伏した。
 涙は、幾何《いくら》流れても尽きなかつた。悲しみは、幾何泣いても、薄らがなかつた。
 凡ては失はれた。凡ては、彼女の心から奪はれた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持つてゐたたゞ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一の相手であつた母を。
 春の花園のやうに、光と愛と美しさとに、充ちてゐた美奈子の心は、此の嵐のために、吹き荒されて、跡には荒寥たる暗黒と悲哀の外は、何も残つてゐなかつた。
 恋人から、邪魔物扱ひされてゐることが、悲しかつた。が、それと同じに、母が――あれほど、自分には優しく、清浄《しやうじやう》である母が、男に対して、娼婦のやうに、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかつた。自分の頼み切つた母が、夜そつと眼を覚して見ると、自分の傍には、ゐないで、有明の行燈を嘗めてゐるのを発見した古い怪譚の中の少女のやうに、美奈子の心は、あさましい駭きで一杯だつた。
 自分に、優しい母を考へると、彼女は母を恨むことは出来なかつた。が、あさましかつた。恥かしかつた。恨めしかつた。
 母と青年とから、逃れて来たものの、美奈子は本当に逃れてゐるのではなかつた。山中で、怪物に会つて、馳け込んだ家が、丁度怪物の棲家であるやうに、母と青年とから逃れて来ても、彼等に相つづいて、同じ此の部屋に帰つて来るのだつた。
 さう思ふと、いつそ美奈子は、此の部屋から逃げ出したかつた。遠く/\|何人《なんぴと》にも見出されない、山の中へ入つて、此の悲しみを何時までも何時までも泣き明したかつた。いな、少くとも此夜|丈《だ》けでも、母と青年との顔を見たくなかつた。母と青年とが、並んで帰つて来るのを見たくなかつた。いな、青年から邪魔物扱ひされてゐる以上、もう部屋に止まりたくなかつた。が、此の部屋を離れて、いな母を離れて、彼女は一人何処へ行くところがあらう。たゞ一人、縋り付く由縁《よすが》とした母を離れて何処《いづこ》へ行くところがあらう。さう思ふと、美奈子の頭には、死んだ父母の面影が、アリ/\と浮んで来た。

        三

 死んだ父母の面影が、浮んで来ると、美奈子は懐しさで、胸がピツタリと閉された。
 今の彼女の悲しみと、苦しみを、撫でさすつて呉れる者は、死んだ父母の外には、広い世の中に誰一人ないやうに思はれた。
 さう思ふと、亡き父が、あの強い腕《かひな》を差し伸べて、自分を招いてゐて呉れるやうに思はれた。その手は世の人々には、どんなに薄情に働いたかも知れないが、自分に対しては限りない慈愛が含まれてゐた。美奈子は、父の腕が、恋しかつた。父の、その強い腕に抱かれたかつた。さう思ふと、自分一人世の中に取り残されて、悲しく情ない目に会つてゐることが、味気《あぢき》なかつた。
 が、それよりも、彼女はこの部屋に止まつてゐて、母と青年とが、何知らぬ顔をして、帰つて来るのを迎へるのに堪へなかつた。何処でもいゝ、山でもいゝ、海でもいゝ、母と青年とのゐないところへ逃れたかつた。彼女は、泣き伏してゐた顔を、上げた。フラ/\と寝台を離れた。浴衣《ゆかた》を脱いで、明石縮の単衣《ひとへ》に換へた。手提を取り上げた。彼女の小さい心は、今狂つてゐた。もう何の思慮も、分別も残つてゐなかつた。たゞ、突き詰めた一途な少女心《をとめごゝろ》が、張り切つてゐた丈《だけ》である。
 彼女が、着物を着換へてしまふ間、幸《さひはひ》に母と青年とは帰つて来なかつた。
 彼女は、部屋を馳け出さうとしたとき、咄嗟に兄のことを考へた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉ぢ込められてゐる。が、他の世間の人々に対しては、愚かなあさましい兄であるが、その愚かさの裡にも、肉親に対する愛だけは、残つてゐる。彼女は、彼女が時々兄を訪ふときに、兄がどんなに嬉しさうな表情をするかを、覚えてゐる。縦令《たとひ》、自分の現在の苦しみや、悲しみを理解し得る兄ではないにしろ、兄の愚かな、然しながら純な態度は、屹度《きつと》自分を慰めて呉れるに違《ちがひ》ない。少くとも、あの愚かな兄|丈《だけ》は、何時行つても屹度、自分に、あの人のよい、愚かしいが然し浄い親愛の情を表して呉れるに違《ちがひ》ない。さう思ふと、美奈子は急に、兄に会ひたくなつた。夜は十時に近かつたがまだ湯本行の電車はあるやうに思つた。もし、横須賀行の汽車に間に合はなかつたら、国府津か小田原かで、一泊してもいゝとさへ思つた。
 部屋の扉《ドア》を、そつと開けて、彼女は廊下を窺《うかが》つた。西洋人の少年少女が二人連れ立つて、自分の部屋へ、帰つて行くらしいのを除いた外には人影はなかつた。
 彼女は、廊下を左へ取つた。その廊下を突き当つて左へ降りると、ホテルの玄関を通らないで、広場へ出ることを知つてゐた。
 彼女は、廊下を馳け過ぎた。階段を、一気に馳け降りた。そして、階段の突き当りにある、扉《ドア》を押し開いて、夜の戸外へ、走り出ようとした。
 が、その扉《ドア》を押し開いた刹那であつた。
「おや!」戸外に、叫ぶ声がした。戸外からも、扉《ドア》を開けようとした人が、思はず内部から開いたので、駭《おどろ》いて発した声だつた。美奈子は、直ぐ、さう叫んだ人と、顔を面して立たなければならなかつた。それは、正《まさ》しく母だつた。母の後に、寄り添ふやうに立つてゐるのは、もとより彼の青年だつた。
「美奈さんぢやないの!」
 母は、可なり駭いてゐた。狼狽してゐたと云つてもよかつた。美奈子は、全身の血が、凍つてしまつたやうに、ぢつと身体を縮ませながら、立つてゐた。
「何うしたの? こんなに遅く?」
 青年との会話には、あんな冷静を保つてゐた母が、別人ではないかと思ふほど、色を変へてゐた。
 美奈子が、黙つてゐると、母は益々気遣はしげに云つた。
「一体|何《ど》うしたの。こんなに遅く、着物を着換へて、手提なんか持つて。」

        四

 母に問ひ詰められて、美奈子は、漸くその重い唇を開いた。
「あの、手紙を出しに、郵便局まで行かうと思つてゐましたの。」
 彼女は、生れて最初の嘘を、ついてしまつた。彼女の、蒼い顫ひを帯びた顔色を見れば、誰が彼女が郵便局へ行くことを、信ずることが出来よう。
「郵便局!」瑠璃子は、反射的にさう繰返したが、その美しい眉は、深い憂慮のために、暗くなつてしまつた。「こんなに遅く郵便局へ!」
 瑠璃子は、呟くやうに云つた。が、それは美奈子を咎めてゐると云ふよりも、自分自身を咎めてゐるやうな声だつた。
 母子《おやこ》の間に、暫らくは沈黙が在つた。美奈子は、屠所に引かれた羊のやうに、たゞ黙つて立つてゐる外は、何うすることも出来なかつた。
「郵便局! 郵便局なら、僕が行つて来て上げませう。」
 母の後に立つてゐた青年は、此の沈黙を救はうとしてさう云つた。
 美奈子は、一寸狼狽した。託すべき手紙などは持つてゐなかつたからである。
「いゝえ。結構でございますの。」
 美奈子は、平素《いつも》に似ず、きつぱりと答へた。その拒絶には、彼女の、芽にして、蹂み躙られた恋の千万無量の恨が、籠つてゐたと云つてもよかつた。
 聡明な瑠璃子には、美奈子の心持が、可なり判つたらしかつた。彼女は、涙がにじんではゐぬかと思はれるほどの、やさしい眸で、美奈子を、ぢつと見詰めながら云つた。
「ねえ! 美奈さん。今晩は、よして呉れない。もう十時ですもの、あした早く入れに行くといゝわ。ねえ美奈さん! いゝでせう。」
 彼女は、美奈子を抱きしめるやうに、掩ひながら、耳許近く、子供でもすかす[#「すかす」に傍点]やうに云つた。
 平素《いつも》なら、母の一言半句にも背かない美奈子であるが、その夜の彼女の心は、妙にこじれ[#「こじれ」に傍点]てゐた。彼女は、黙つて返事をしなかつた。
「何うしても、行くのなら、妾《わたし》も一緒に行くわ。青木さんは、部屋で待つてゐて下さいね。ねえ! 美奈さん、それでいいでせう。」
 さう云ひながら、瑠璃子は早くも、先に立つて歩まうとした。
 美奈子は、一寸進退に窮した。母と一緒に郵便局へ行つても、出すべき手紙がなかつた。それかと云つて、今まで黙つてゐながら、今更行くことをよすとも、言ひ出しかねた。
 その裡に、青年は此の場を避けることが、彼にとつて、一番適当なことだと思つたのだらう。何の挨拶もしないで、建物の中へ入ると、階段を勢よく馳け上つてしまつた。
 母一人になると、美奈子の張り詰めてゐた心は、弛んでしまつて、新しい涙が、頬を伝ひ出したかと思ふと、どんなに止めようとしても止まらなかつた。到頭、しく/\と声を立てゝしまつた。
 美奈子が泣き始めるのを見ると、瑠璃子は、心から駭《おどろ》いたらしかつた。美奈子の身体を抱へながら叫ぶやうに云つた。
「美奈さん! 何うしたの、一体何うしたの。何が悲しいの。貴女一人残して置いて済まなかつたわ。御免なさいね、御免なさいね。」
 青年に対しては、あれほど冷静であつた母が、本当に二十前後の若い女に帰つたやうに、狼狽《うろた》へてゐるのであつた。
「貴女、泣いたりなんかしたら、厭ですわ。今迄貴女の泣き顔は、一度だつて、見たことがないのですもの。妾《わたし》、貴女の泣き顔を見るのが、何よりも辛いわ。一体何うしたの。妾《わたし》が、悪かつたのなら、どんなにでもあやま
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