母に迫つてゐるらしかつた。顫へる声が、変に途切れて、傍聞《わきぎ》きしてゐる美奈子までが、胸に迫るやうな声だつた。
が、母は平素《いつも》のやうに落着いた声で云つた。
「解つてゐますわ。」
母の冷静な答に、青年が満足してゐないことは明かだつた。
「解つてゐます。さうです、貴女は何時でも、さう云はれるのです。僕が、何時か貴女に申上げたときにも、貴女は解つてゐると仰しやつたのです。が、貴女が解つてゐると仰しやるのと、解つてゐないと仰しやるのと、何処が違ふのです。恐らく、貴女は、貴女の周囲に集まつてゐる多くの男性に、皆一様に『解つてゐる』『解つてゐる』と仰しやつてゐるのではありませんか。『解つてゐる』程度のお返事なら、お返事していたゞかなくても、同じ事です。解つてゐるのなら、本当に解つてゐるやうに、していたゞきたいと思ふのです。」
青年が、一句一語に、興奮して行く有様が、目を閉ぢて、ぢつと聴きすましてゐる美奈子にさへ、アリ/\と感ぜられた。
が、母は、何と云ふ冷静さだらうと美奈子でさへ、青年の言葉を、陰で聴いてゐる美奈子でさへ、胸が裂けるやうな息苦しさを感じてゐるのに、面と向つて聴いてゐる当人の母は、息一つ弾ませてもゐないのだつた。青年が、興奮すればするほど、興奮して行く有様を、ぢつと楽しんででもゐるかのやうに、落着いてゐる母だつた。
「解つてゐるやうにするなんて? 何《ど》うすればいゝの?」
言葉|丈《だけ》はなまめかしく馴々しかつた。
母の取り済した言葉を、聴くと、青年は火のやうに激してしまつた。
「何うすればいゝの? なんて、そんなことを、貴女は僕にお聞きになるのですか。」青年は、恨めし気に云つた。「貴女は僕を、最初から、僕を玩具にしていらつしやるのですか。僕の感情を、最初から弄んでいらつしやるのですか。僕が折に触れ、事に臨んで、貴女に申上げたことを、貴女は何と聴いていらつしやるのです。」
青年の若い熱情が――、恋の炎が、今烈々と迸つてゐるのであつた。
六
青年が、段々激して来るのを、聴いてゐると、美奈子はもう此の上、隠れて聴いてゐるのが、堪らなかつた。
彼女の小さい胸は、いろ/\な烈しい感情で、張り裂けるやうに一杯だつた。青年の心を知つたための大きい絶望もあつた。が、それと同時に、青年の烈しい恋に対する優しい同情もあつた。母の不誠意な、薄情な態度を悲しむ心も交つてゐた。どの一つの感情でも、彼女の心を底から覆へすのに十分だつた。
その上、他人の秘密、他人《ひと》の一生懸命な秘密を、窃み聴きしてゐることが、一番彼女の心を苦しめた。彼女は、もう一刻も、坐つてゐることが出来なかつた。その椅子《ベンチ》が針の蓆か、何かでもあるやうに、幾度も腰を上げようとした。が、距離は、わづかに二間位しかない。草を踏む音でも聞えるかも知れない。殊に樹木の蔭を離れると、如何なる機《はづ》みで母達の眼に触れるかも知れない。母達が、自分がゐたことに気が付いたときの、駭きと当惑とを思ふと、美奈子の立ち上らうとする足は、そのまゝすくん[#「すくん」に傍点]でしまふのだつた。
美奈子が、退つ引きならぬ境遇に苦しんでゐることを、夢にも知らない瑠璃子は、前のやうに落着いた声で静《しづか》に云つた。
「だから、解つてゐると云つてゐるのぢやないの。貴君のお心は、よく解つてゐると云つてゐるのぢやないの。」
青年の声は、前よりももつと迫つてゐた。
「本当ですか。本当ですか。本心でさう仰《おつ》しやつてゐるのですか。まさか、口先|丈《だけ》で云つていらつしやるのぢやありますまいね。」
青年が、さう訊き詰めても母は、黙つてゐた。青年は、愈々焦つた。
「本心ならば、証拠を見せて下さい。貴女のお言葉|丈《だ》けは、もう幾度聴いたか分らない。貴女は、それと同じやうな言葉を、僕に幾度繰返したか分らない。僕は言葉|丈《だけ》ではなく、証拠を見せて貰ひたいのです。本心ならば、本心らしい証拠を見せていたゞきたいのです。」
青年が、焦《あせ》つても激しても、動かない母だつた。
「証拠なんて! 妾《わたくし》の言葉を信じて下さらなければ、それまでよ。お女郎ぢやあるまいし、まさか、起請《きしやう》を書くわけにも行かないぢやないの。」
母の貴婦人《レディ》らしからぬ言葉遣ひが、美奈子の心を傷ましめた。
「証拠と云つて、品物を下さいと云ふのぢやありません。僕が、先日云つたことに、ハツキリと返事をしていたゞきたいのです。たゞ『待つてゐろ』ばかりぢや僕はもう堪らないのです。」
「先日云つたことつて、何?」
母は、相手を益々じらすやうに、しかもなまめ[#「なまめ」に傍点]かしい口調で云つた。
「あれを、お忘れになつたのですか、貴女《あなた》は?」
青年は憤然としたらしかつた。
「あんな重大なことを、僕があんなに一生懸命にお願ひしたのを、貴女はもう忘れて、いらつしやるのですか。ぢや、繰り返してもう一度、申上げませう。瑠璃子さん、貴女は僕と結婚して下さいませんか。」
結婚と云ふ思ひがけない言葉を聴くと、美奈子は、最後の打撃を受けたやうに思つた。青年の母に対する決心が、これほど堅く進んでゐようとは夢にも思つてゐないことだつた。
「あのお話! あれには貴君《あなた》、ハツキリとお答へしてあるぢやないの。」
母は、青年の必死な言葉を軽く受け流すやうに答へた。
「あのお答へには、もう満足出来なくなつたのです。」
母のハツキリとした答へと云ふのは、どんな内容だらうと思ふと、美奈子は悪い/\と思ひながらぢつと耳を澄まさずにはゐられなかつた。
七
「あんなお答には、僕はもう満足出来なくなつたのです。あんな生ぬるいお答には、もう満足出来なくなつたのです。貴女《あなた》は、美奈子さんが、結婚してしまふまで、この返事は待つて呉れと仰《おつ》しやる。が、貴女のお心|丈《だけ》をお定《き》めになるのなら、美奈子さんの結婚などは、何の関係もないことではありませんか。僕に約束をして下さつて、たゞ、時期を待てと仰しやるのなら僕は何時までも待ちます。五年でも十年でも、二十年でも、否生涯待ち続けても僕は悔いないつもりです。貴女《あなた》のはたゞ『返事を待て』と仰《おつ》しやるのです、お返事|丈《だけ》ならば、美奈子さんが結婚しようがしまいが、それとは少しも関係なしに、貴女のお心一つで、何うともお定《き》めになることが、出来ることぢやありませんか。僕に約束さへして下されば、僕は欣んで五年でも七年でも待つてゐる積りです。」
青年の声は、だん/\低くなつて来た。が、その声に含まれてゐる熱情は、だん/\高くなつて行くらしかつた。しんみりとした調子の中に、人の心に触れる力が籠つてゐた。自分の名が、青年の口に上る度に、美奈子は胸をとゞろかせながら、息を潜めて聞いてゐた。
母が何とも答へないので、青年は又言葉を続けた。
「返事を待て、返事を待つて呉れと、仰しやる。が、その返事がいゝ返事に定《き》まつてゐれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待つて、その返事が悪い返事だつたら、一体|何《ど》うなるのです。僕は青春の感情を、貴女に散々弄ばれて、揚句の端《はて》に、突き離されることになるのぢやありませんか。貴女は、僕を何《ど》ちらとも付かない迷ひの裡に、釣つて置いて、何時までも何時まで、僕の感情を弄ばうとするのではありませんか。僕は、貴女のなさることから考へると、さう思ふより外はないのです。」
「まさか、妾《わたし》そんな悪人ではないわ。貴君《あなた》のお心は、十分お受けしてゐるのよ。でも、結婚となると妾《わたし》考へるわ。一度あゝ云ふ恐ろしい結婚をしてゐるのでせう。妾《わたし》結婚となると、何か恐ろしい淵の前にでも立つてゐるやうで、足が竦んでしまふのです。無論、美奈子が結婚してしまへば、妾《わたし》の責任は無くなつてしまふのよ。結婚しようと思へば、出来ないことはないわ。が、その時になつて、本当に結婚したいと思ふか、したくないか、今の妾《わたし》には分らないのよ。」
母は、初めて本心の一部を打ち明けたやうに云つた。
「が、それは貴女《あなた》の結婚に対するお考へです。僕が訊きたいと思ふのは、僕に対する貴女のお考へです。貴女が結婚するかしないかよりも、貴女が僕と結婚するかしないかが、僕には大問題なのです。言葉を換へて云へば、僕を、結婚してもいゝと思ふほど、愛してゐて下さるか何うかが、僕には大問題なのです。」
青年の言葉は、一句々々一生懸命だつた。
「つまり、かう云ふことをお尋ねしたのです。貴女が、もし、将来結婚なさらないで終るのなら、是非もないことです。が、もし結婚なさるならば、何人《なんぴと》を措いても、僕と結婚して下さるかどうかを訊いてゐるのです。時期などは、何時でもいゝ、五年後でも、十年後でも、介意《かま》はないのです、たゞ、若《も》し貴女が結婚しようと決心なさつたときに、夫として僕を選んで下さるか何うかをお訊ねしてゐるのです。」
青年の静かな言葉の裡には、彼の熾烈な恋が、火花を発してゐると云つてもよかつた。
事理の徹つた退引《のつぴき》ならぬ青年の問に、母が何と答へるか、美奈子は胸を顫はしながら待つてゐた。
母は、暫らく返事をしなかつた。夜は、もう十時に近かつた。やゝ欠けた月が、箱根の山々に、青白い夢のやうな光を落してゐた。
約束の夜に
一
「そのお返事は、出来ないことはないと思ふのです。否か応か、孰《どち》らかの返事をして下さればいゝのです。貴女《あなた》が、今まで僕に示して下さつたいろ/\な愛の表情に、たゞ裏書をさへして下さればいゝのです。貴女の将来のお心を訊いてゐるのではないのです。現在の、貴女のお心を訊いてゐるのです。現在の、貴女自身のお心が、貴女に分らない筈はないと思ふのです。たゞ、現在の貴女のお心をハツキリお返事して下さればいゝのです。将来、結婚と云ふ問題が貴女のお考への裡に起つたときには、僕を夫として選ばうと現在思つてゐるかどうかを訊かしていたゞきたいのです。」
青年の問には、ハツキリとした条理が立つてゐた。詭弁を弄しがちな瑠璃子にも、もう云ひ逃れる術は、ないやうに見えた。
「妾《わたし》、貴君《あなた》を愛してゐることは愛してゐるわ。妾《わたし》が、此間中から云つてゐることは、決して嘘ではないわ。が、貴君を愛してゐると云ふことは、必ずしも貴君と結婚したいと云ふことを意味してゐないわ。けれど、貴君に、結婚したいと云ふ希望が、本当におありになるのなら、妾《わたし》は又別に考へて見たいと思ふの。」
瑠璃子の、少しも熱しない返事を訊くと、青年は又激してしまつた。
「考へて見るなんて、貴女のさう云ふお返事はもう沢山です。『考へて見る』『解つてゐる』さう云ふ一時逃れのお返事には、もうあき/\しました。僕は、全か若《も》しくは無を欲するのです。徹底的なお返事が欲しいのです。貴女が、若し『否』と仰《おつ》しやれば、僕も男です。失恋の苦しみと男らしく戦つて、貴女に決して未練がましいことは云はないつもりです、僕は貴女に、承諾して呉れとは云はないのです。孰《どち》らでも、ハツキリとしたお返事が欲しいのです。こんな中途半端な気持の中《うち》に、いつまでも苦しんでゐたくないのです。僕は、貴女の全部を掴みたいのです。でなければ僕はむしろ、貴女の全部を失ひたいのです、恋は暴君です、相手の占有を望んで止まないのです。」
青年は、男らしく強くは云つてゐるものの、彼が瑠璃子に対して、どんなに微弱であるかは、その顫へてゐる語気で明かに分つた。
「一体考へて見るなんて、何時まで考へて御覧になるのです。五六年も考へて見るお積《つもり》なのですか。」
青年は、恨《うらみ》がましくやゝ皮肉らしく、さう云つた。
「いゝえ。明後日まで。」
瑠璃子の答は、一生懸命に突つ掛つて来た相手を、軽く外したやうな意地悪さと軽快さとを持つてゐた。
前へ
次へ
全63ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング