とは、云ひ兼ねたらしかつた。
「ぢや、美奈さんを残して置きませうか。」
母は青年に相談するやうに云つた。
さう聴いた青年の面《おもて》に、ある喜悦の表情が、浮んでゐるのが、美奈子は気が付かずにはゐられなかつた。その表情が、美奈子の心を、むごたらしく傷けてしまつた。
「ぢや、美奈さん! 一寸行つて来ますわ。寂しくない?」
母は、平素《いつも》のやうに、優しい母だつた。
「いゝえ、大丈夫ですわ。」
口|丈《だけ》は、元気らしく答へたが、彼女の心には、口とは丸切り反対に、大きい大きい寂しさが、暗い翼を拡げて、一杯にわだかまつ[#「わだかまつ」に傍点]てゐたのだ。
母と青年との姿が、廊下の端《はづれ》に消えたとき、扉《ドア》の所に立つて見送つてゐた美奈子は、自分の部屋へ駈け込むと、床に崩れるやうに、蹲まつて、安楽椅子の蒲団に顔を埋めたまゝ、暫らくは顔を上げなかつた。熱い/\涙が、止め度もなく流れた。自分|丈《だ》けが、此世の中に、生き甲斐のないみじめ[#「みじめ」に傍点]な人間のやうに、思はれた。誰からも見捨てられたと云つたやうな寂しさが、心の隅々を掻き乱した。
友達にでも、手紙を書けば、少しでも寂しさが紛らせるかと思つて、机の前に坐つて見たけれども纏つた文句は、一行だつて、ペンの先には、出て来なかつた。母と青年とが、いつもの散歩路を、寄り添ひながら、親しさうに歩いてゐる姿だけが、頭の中にこびり付いて離れなかつた。
その中に、寂しさと、彼女自身には気が付いてゐなかつたが、人間の心に免れがたい嫉妬とが、彼女を立つても坐つても、ゐられないやうに、苛《さいな》み初めてゐた。彼女は、高い山の頂きにでも立つて、思ふさま泣きたかつた。彼女は、到頭ぢつとしてはゐられないやうな、いら/\した気持になつてゐた。彼女は、フラ/\と自分の部屋を出た。的もなしに、戸外に出たかつた。暗い道を何処までも何処までも、歩いて行きたいやうな心持になつてゐた。が、母に対して、散歩に出ないと云つた以上、ホテルの外へ出ることは出来なかつた。彼女は、ふとホテルの裏庭へ、出て見ようと思つた。其処は可なり広い庭園で、昼ならば、遥に相模灘を見渡す美しい眺望を持つてゐた。
美奈子が、廊下から、そつとその庭へ降り立つたとき、西洋人の夫妻が、腕を組合ひながら、芝生の小路を、逍遥してゐる外は、人影は更に見えなかつた。
美奈子は、ホテルの部屋々々からの灯影《ほかげ》で、明るく照し出された明るい方を避けて出来る丈《だけ》、庭の奥の闇の方へと進んでゐた。
樹木の茂つた蔭にある椅子《ベンチ》を、探し当てゝ、美奈子は腰を降した。
部屋々々の窓から洩れる灯影も、茲《こゝ》までは届いて来なかつた。周囲は人里離れた山林のやうに、静かだつた。止宿してゐる西洋の婦人の手すさびらしい、ヴァイオリンの弾奏が、ほのかにほのかに聞えて来る外は、人声も聞えて来なかつた。
闇の中に、たつた一人坐つてゐると、いらいらした、寂しみも、だん/\落着いて来るやうに思つた。殊にヴァイオリンのほのかな音が、彼女の傷《きずつ》いた胸を、撫でるやうに、かすかにかすかに聞えて来るのだつた。それに、耳を澄してゐる中に、彼女の心持は、だん/\和らいで行つた。
母が帰らない中に、早く帰つてゐなければならぬと思ひながらも、美奈子は腰を上げかねた。三十分、四十分、一時間近くも、美奈子は、其処に坐り続けてゐた。その時、彼女は、ふと近づいて来る人の足音を聴いたのである。
三
美奈子は、最初その足音をあまり気にかけなかつた。先刻ちらりと見た西洋人の夫妻たちが通り過ぎてゐるのだらうと思つた。
が、その足音は不思議に、だん/\近づいて来た。二言三言、話声さへ聞えて来た。それはまさしく、外国語でなく日本語であつた。しかも、何だか聞きなれたやうな声だつた。彼女は『オヤ!』と思ひながら、振り返つて闇の中を透して見た。
闇の中に、人影が動いた。一人でなく二人連だつた。二人とも、白い浴衣《ゆかた》を着てゐるために、闇の中でも、割合ハツキリと見えた。美奈子は、ぢつと二人が近よつて来るのを見詰めてゐた。十秒、二十秒、その裡にそれが何人《なんぴと》であるかが分ると、彼女は全身に、水を浴びせられたやうに、ゾツとなつた。それは、夜の目にも紛れなく青年と母の瑠璃子とであつたからである。而も、二人は、彼等が恋人同志であることを、明かに示すやうに、身体が触れ合はんばかりに、寄り添うて歩いてゐるのである。闇の中で、しかとは判らないが、母の左の手と、青年の右の手とが、堅く握り合せられてゐるやうに、美奈子には感ぜられた。
美奈子は、恐ろしいものを見たやうに、身体がゾク/\と顫へた。彼女は、地が口を開いて、自分の身体を此のまゝ呑んで呉れゝばいゝとさへ思つた。悲鳴を揚げながら、逃げ出したいやうな気持だつた。が、身体を動かすと母達に気付かれはしないかと思ふと、彼女は、動くことさへ出来なかつた。彼女は、そのまゝ椅子に凍り付いたやうに、身体を小さくしながら、息を潜めて、母達が行き過ぎるのを待つてゐようと思つた。が、あゝそれが何と云ふ悪魔の悪戯《いたづら》だらう! 母達は、だん/\美奈子のゐる方へ歩み寄つて来るのであつた。彼女の心は当惑のために張り裂けるやうだつた。母と青年とが、若《も》し自分を見付けたらと思ふと、彼女の身体全体は、益々顫へ立つて来た。
が、母と青年とは、闇の中の樹蔭の椅子《ベンチ》に、美奈子がたつた一人蹲まつてゐようとは、夢にも思はないと見え、美奈子のゐる方へ、益々近づいて来た。美奈子は、絶体絶命だつた。母達が気の付かない内に、自分の方から声をかけようと思つたが、声が咽喉にからんでしまつて、何うしても出て来なかつた。が、美奈子の当惑が、最後の所まで行つた時だつた。今まで、美奈子の方へ真直に進んで来てゐた母達は、つと右の方へ外れたかと思ふと、其処に茂つてゐる樹木の向う側に、樹木を隔てゝ美奈子とは、背中合せの椅子《ベンチ》に、腰を下してしまつた。
美奈子は、苦しい境遇から、一歩を逃れてホツと一息した。が、また直ぐ、母と青年とが、話し初める会話を、何うしても立聞かねばならぬかと思ふと、彼女はまた新しい当惑に陥ちてゐた。彼女は母と青年とが、話し初めることを聞きたくなかつた。それは、彼女にとつて余りに恐ろしいことだつた。殊に、母と青年とが、ああまで寄り添うて歩いてゐるところを見ると、それが世間並の話でないことは、余りに判りすぎた。彼女は、自分の母の秘密を知りたくなかつた。今まで、信頼し愛してゐる母の秘密を知りたくなかつた。美奈子は、自分の眼が直ぐ盲になり、耳が直ぐ聾することを、どれほど望んでゐたか判らなかつた。若し、それが出来なければ、一目散に逃げたかつた。若し、それが出来なかつたら、両手で二つの耳を堅く/\掩うてゐたかつた。
が、彼女がどんなに聴くことを、厭がつても、聞えて来るものは、聞えて来ずには、ゐなかつたのである。夜の静かなる闇には、彼等の話声を妨げる少しの物音もなかつたのである。
四
夜は静《しづか》だつた。母と青年との話声は、二間ばかり隔つてゐたけれども、手に取るごとく美奈子の耳――その話声を、毒のやうに嫌つてゐる美奈子の耳に、ハツキリと聞えて来た。
「稔さん! 一体何なの? 改まつて、話したいことがあるなんて、妾《わたし》をわざ/\こんな暗い処へ連れて来て?」
さう言つてゐる母の言葉や、アクセントは、平生の母とは思へないほど、下卑てゐて娼婦か何かのやうに艶《なまめ》かしかつた。而も、美奈子のゐるところでは、一度も呼んだことのない青年の名を、馴々しく呼んでゐるのだつた。かうした母の言葉を聞いたとき、美奈子の心は、止《とゞ》めの一太刀を受けたと云つてもよかつた。今まで、あんなに信頼してゐた母にまで裏切られた寂しさと不快とが、彼女の心を滅茶々々に引き裂いた。
瑠璃子に、さう言はれても、青年は却々《なか/\》話し出さうとはしなかつた。沈黙が、二三分間彼等の間に在つた。
母は、もどかしげに青年を促した。
「早く、おつしやいよ! 何をそんなに考へていらつしやるの。早く帰らないといけませんわ。美奈子が、淋しがつてゐるのですもの。歩きながらでは、話せないなんて、一体どんな話なの! 早く言つて御覧なさい! まあ、自烈《じれ》つたい人ですこと。」
美奈子は、自分の名を呼ばれて、ヒヤリとした。それと同時に、母の言葉が、蓮葉《はすは》に乱暴なのを聴いて、益々心が暗くなつた。
青年は、それでも却々話し出さうとはしなかつた。が、母の気持が可なり浮いてゐるのにも拘はらず、青年が一生懸命であることが、美奈子にも、それとなく感ぜられた。
「さあ! 早くおつしやいよ。一体何の話なの?」
母は、子供をでも、すかす[#「すかす」に傍点]やうに、なまめいた口調で、三度催促した。
「ぢや、申上げますが、いつものやうに、はぐらか[#「はぐらか」に傍点]して下さつては困りますよ。僕は真面目で申しあげるのです。」
青年の口調は、可なり重々しい口調だつた。一生懸命な態度が、美奈子にさへ、アリ/\と感ぜられた。
「まあ! 憎らしい。妾《わたし》が、何時|貴君《あなた》を、はぐらか[#「はぐらか」に傍点]したのです。厭な稔さんだこと。何時だつて、貴方《あなた》のおつしやることは、真面目で聴いてゐるではありませんか。」
さう言つてゐる母の言葉に、娼婦のやうな技巧があることが、美奈子にも感ぜられた。
「貴女《あなた》は、何時もさうなのです。貴女は、何時も僕にさうした態度しか見せて下さらないのです。僕が一生懸命に言ふことを、何時もそんな風にはぐらか[#「はぐらか」に傍点]してしまふのです。」
青年は、恨みがましくさう言つた。
「まあ、そんなに怒らなくつてもいゝわ。ぢや、妾《わたし》貴君の好きなやうに、聴いて上げるから言つて御覧なさい!」
母は、子供を操るやうに言つた。
母の態度は、心にもない立聞をしてゐる美奈子にさへ恥しかつた。
青年は、また黙つてしまつた。
「さあ! 早くおつしやいよ。妾《わたし》こんなに待つてゐるのよ。」
母が、青年の頬近く口を寄せて、促してゐる有様が、美奈子にも直ぐ感ぜられた。
「瑠璃子さん! 貴女には、僕の今申し上げようと思つてゐることが、大抵お解りになつてはゐませんか。」
青年は、到頭必死な声でさう云つた。美奈子は、予期したものを、到頭聴いたやうに思ふと、今までの緊張が緩むのと同時に、暗い絶望の気持が、心の裡一杯になつた。それでも彼女は母が、一体どう答へるかと、ぢつと耳を澄してゐた。
五
瑠璃子は青年をじらすやうに、落着いた言葉で云つた。
「解つてゐるかつて? 何がです。」
ある空々しさが、美奈子にさへ感ぜられた。瑠璃子の言葉を聴くと、青年は、可なり激してしまつた。烈しい熱情が、彼の言葉を、顫はした。
「お解りになりませんか。お解りにならないと云ふのですか。僕の心持、僕の貴女に対する心持が、僕が貴女をこんなに慕つてゐる心持が。」
青年は、もどかしげに、叫ぶやうに云ふのだつた。陰で聞いてゐる美奈子は、胸を発矢《はつし》と打たれたやうに思つた。青年の本当の心持ちが、自分が心|私《ひそ》かに思つてゐた青年の心が、母の方へ向つてゐることを知ると、彼女は死刑囚が、その最後の判決を聴いた時のやうに、身体も心も、ブル/\顫へるのを、抑へることが出来なかつた。が、母が青年の言葉に何と答へるかが、彼女には、もつと大事なことだつた。彼女は、砕かれた胸を抑へて、母が何と云ひ出すかを、一心に耳を澄せてゐた。
が、母は容易に返事をしなかつた。母が、返事をしない内に、青年の方が急《せ》き立つてしまつた。
「お解りになりませんか。僕の心持が、お解りにならない筈はないと思ふのですが、僕がどんなに貴女を思つてゐるか。貴女のためには、何物をも犠牲にしようと思つてゐる僕の心持を。」
青年は、必死に
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