本当に浴衣の袖で顔を掩うた。処女らしい嬌羞が、その身体全体に溢れてゐた。が、彼女の心は、憎からず思つてゐる青年からの讃辞を聴いて、張り裂けるばかりの歓びで躍つてゐた。
 山の端を離れた月は、此の峡谷に添うてゐる道へも、その朗かな光を投げてゐた。美奈子はつい二三尺離れて、月光の中に匂うてゐる青年の白皙の面《おもて》を見ることが出来た。青年の黒い眸が、時々自分の方へ向つて輝くのを見た。
 二人は、もう一時間前の二人ではなかつた。今まで、遠く離れてゐた二人の心は、今可なり強い速力で、相求め合つてゐるのは確かだつた。
 二人は、また黙つたまゝ、歩いた。が、前のやうな固くるしい沈黙ではなかつた。黙つてゐても心持|丈《だけ》は通つてゐた。
「もつと歩いても、大丈夫ですか。」
 木賀が過ぎて宮城野近くなつたとき、青年は再び沈黙を破つた。
「はい。」
 美奈子は、慎しく答へた。が、心の裡では、『何処までも/\』と云ふ積《つもり》であつたのだ。

        六

 木賀から、宮城野まで、六七町の間、早川の谿谷に沿うた道を歩いてゐる裡に、二人は漸く打ち解けて、いろ/\な問を訊いたり訊かれたりした。
 美奈子の処女らしい無邪気な慎しやかさが、青年の心を可なり動かしたやうだつた。それと同時に青年の上品な素直な優しい態度が、美奈子の心に、深く/\喰ひ入つてしまつた。
 宮城野の橋まで来ると、谿は段々浅くなつてゐる。橋下の水には水車が懸つてゐて、銀《しろがね》の月光を砕きながら、コト/\と廻り続けてゐた。
 月は、もう可なり高く上《のぼ》つてゐた。水のやうに澄んだ光は、山や水や森や樹木を、しつとり濡してゐた。二人は、夏の夜の清浄《しやうじやう》な箱根に酔ひながら、可なり長い間橋の欄干に寄り添ひながら、佇んでゐた。
 美奈子の心の中には、青年に対する熱情が、刻一刻潮のやうに満ちわたつて来るのだつた。今までは、どんな男性に対しても感じたことのないやうな、信頼と愛慕との心が、胸一杯にヒシ/\とこみ上げて来るのだつた。
 話は、何時の間にか、美奈子の一身の上にも及んでゐた。美奈子は到頭、兄の悲しい状態まで話してしまつた。
「さう/\、そんな噂は、薄々聴いてゐましたが、お兄《あにい》さんがそんなぢや、貴女《あなた》には本当の肉親と云つたやうなものは、一人もないのと同じですね。」
 青年は悵然《ちやうぜん》としてさう云つた。心の中の同情が、言葉の端々に溢れてゐた。さう云はれると、美奈子も、自分の寂しい孤独の身の上が顧みられて、涙ぐましくなる心持を、抑へることが出来なかつた。
「母が、本当によくして呉れますの。実の母のやうに、実の姉のやうに、本当によくして呉れますの。でも、やつぱり本当の兄か姉かが一人あれば、どんなに頼もしいか分らないと思ひますの。」
 美奈子は、つい誰にも云はなかつた本心を云つてしまつた。
「御尤もです」青年は可なり感動したやうに答へた。「僕なども、兄弟の愛などは、今までそんなに感じなかつたのですが、兄を不慮に失つてから、肉親と云ふものの尊さが、分つたやうに思ふのです。でも、貴女なんか……」さう云つて、青年は一寸云ひ淀んだが、
「今に御結婚でもなされば、今のやうな寂しさは、自然無くなるだらうと思ひます。」
「あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考へて見たこともございませんわ。」
 美奈子は、恥かしさうに周章《あわて》て打ち消した。
「ぢや、当分御結婚はなさらない訳ですね。」
 青年は、何故だか執拗に再びさう訊いた。
「まだ、本当に考へて見たこともございませんの。」
 美奈子は、益々狼狽しながらも、ハツキリと口では、打ち消した。が、青年が何うしてさうした問題を繰り返して訊くのかと思ふと、彼女の顔は焼けるやうに熱くなつた。胸が何とも云へず、わくわくした。彼女は、相手が何うして自分の結婚をそんなに気にするのか分らなかつた。が、彼女がある原因を想像したとき、彼女の頭は狂ふやうに熱した。
 彼女は、熱にでも浮されたやうに、平生の慎《つゝし》みも忘れて云つた。
「結婚なんて申しましても、妾《わたくし》のやうなものと、妾《わたくし》のやうな、何の取りどころもないやうなものと。」
 彼女の声は、恥かしさに顫へてゐた。彼女の身体も恥かしさに顫へてゐた。

        七

 美奈子の声は、恥かしさに打ち顫へてゐたけれども、青年は可なり落着いてゐた。余裕のある声だつた。
「貴女なんかが、そんな謙遜をなさつては困りますね。貴女のやうな方が結婚の資格がないとすれば、誰が、どんな女性が結婚の資格があるでせう。貴女ほど――さう貴女ほどの……」
 さう云ひかけて、青年は口を噤んでしまつた。が、口の中では、美奈子の慎ましさや美しさに対する讃美の言葉を、噛み潰したのに違ひなかつた。
 美奈子は、青年が此の次に、何を言ひ出すかと云ふ期待で、身体全体が焼けるやうであつた。心が波濤のやうに動揺した。小説で読んだ若い男女の|恋の場《ラヴ・シーン》が、熱病患者の見る幻覚のやうに、頭の中に頻りに浮んで来た。
 が、美奈子のもしやと云ふ期待を裏切るやうに、青年は黙つてゐた。月の光に透いて見える白い頬が、やゝ興奮してゐるやうには見えるけれども、美奈子の半分も熱してゐないことは明かだつた。
 美奈子も裏切られたやうに、かすかな失望を感じながら、黙つてしまつた。
 沈黙が五分ばかりも続いた。
「もう、そろ/\帰りませうか。まるで秋のやうな冷気を感じますね。着物が、しつとりして来たやうな気がします。」
 青年は、さう言ひながら欄干を離れた。青年の態度は、平生の通りだつた。優しいけれども、冷静だつた。
 美奈子は夢から覚めたやうに、続いて欄干を離れた。自分だけが、興奮したことが、恥しくて堪らなかつた。自分の独合点《ひとりがてん》の興奮を、相手が気付かなかつたかと思ふと、恥しさで地の中へでも隠れたいやうな気がした。
 が、丁度二三町を帰りかけたときだつた。青年は思ひ出したやうに訊いた。
「お母様は何時まで、あゝして未亡人でいらつしやるのでせうか。」
 青年の問は、美奈子が何と答へてよいか分らないほど、唐突《だしぬけ》だつた。彼女は、一寸|答《こたへ》に窮した。
「いや、実はこんな噂があるのです。荘田夫人は、本当はまだ処女なのだ。そして、将来は屹度《きつと》再婚せられる。屹度再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろ/\な噂があるものですから、貴女にでも伺つて見れば本当の事が分りやしないかと思つたのです。」
「妾《わたくし》、ちつとも存じませんわ。」
 美奈子はさう答へるより外はなかつた。
「こんなことを言つてゐる者もあるのです。夫人が結婚しないのは、荘田家の令嬢に対して母としての責任を尽したいからなのだ。だから、令嬢が結婚すれば、夫人も当然再婚せられるだらう。かう言つてゐる者もあるのです。」
 青年は、ホンの噂話のやうにさう言つた。が、青年の言葉を、噛しめてゐる中に、美奈子は傍《かたはら》の渓間へでも突落されたやうな烈しい打撃を感ぜずにはゐられなかつた。
 青年が、自分の結婚のことなどを、訊いた原因が、今ハツキリと分つた。自分の結婚などは、青年にはどうでもよかつたのだ。たゞ、自分が結婚した後に起る筈の、母の再婚を確めるために、自分の結婚を、口にしたのに過ぎないのだ。それとは知らずに、興奮した自分が、恥しくて恥しくて堪らなかつた。彼女の処女らしい興奮と羞恥とは、物の見事に裏切られてしまつたのだ。
 彼女は、照つてゐる月が、忽ち暗くなつてしまつたやうな思《おもひ》がした。青年と並んで歩くことが堪らなかつた。彼女の幸福の夢は、忽ちにして恐ろしい悪夢と変じてゐた。
 彼女はそれでも、砕かれた心をやつと纏めながら返事だけした。
「妾《わたくし》、母のことはちつとも存じませんわ。」
 彼女の低い声には、綿々たる恨《うらみ》が籠つてゐた。


 夜の密語

        一

 青年との散歩が、悲しい幻滅に終つてから、避暑地生活は、美奈子に取つて、喰はねばならぬ苦い苦い韮《にら》になつた。
 開きかけた蕾が、さうだ! 周囲の暖かさを信じて開きかけた蕾が、周囲から裏切られて思ひがけない寒気に逢つたやうに、傷つき易い少女の心は、深い/\傷を負つてしまつた。
 それでも、温和《おとな》しい彼女は、東京へ一人で帰るとは云はなかつた。自分ばかり、何の理由も示さずに、先きへ帰ることなどは、温和しい彼女には思ひも及ばないことだつた。
 彼女は止《とゞ》まつて、而《さう》して忍ぶべく決心した。彼女の苦しい辛い境遇に堪へようと決心した。
 青年の心が、美奈子にハツキリと解つてからは、彼女は同じ部屋に住みながら、自分一人いつも片隅にかくれるやうな生活をした。
 青年と母とが、向ひ合つてゐるときなどは、彼女は、そつと席を外した。その人から、想はれてゐない以上、せめてその人の恋の邪魔になるまいと思ふ、美奈子の心は悲しかつた。
 さう気が付いて見ると、青年の母に対する眸が、日一日輝きを増して来るのが、美奈子にもありあり[#「ありあり」に傍点]と判つた。母の一顰一笑に、青年が欣んだり悲しんだりすることが、美奈子にもありあり[#「ありあり」に傍点]と判つた。
 が、それが判れば判るほど、美奈子は悲しかつた。寂しかつた。苦しかつた。
 一人の男に、二人の女、或は一人の女に、二人の男、恋愛に於ける三角関係の悲劇は、昔から今まで、数限りもなく、人生に演ぜられたかも判らない。が、瑠璃子と青年と美奈子との三人が作る三角関係では、美奈子|丈《だけ》が一番苦しかつた。可憐な優しい美奈子|丈《だけ》が苦しんでゐた。
「美奈さん! 何《ど》うかしたのぢやないの?」
 美奈子が、黙つたまゝ、露台《バルコニー》の欄干に、長く長く倚つてゐるときなど、母は心配さうに、やさしく訊ねた。が、そんなとき、
「いゝえ! どうもしないの。」
 寂しく笑ひながら答へる、小さい胸の内に、堪へられない、苦しみがあることは、明敏な瑠璃子にさへ判らなかつた。
 青年も、美奈子が、――一度あんなに彼に親しくした美奈子が、又掌を飜《かへ》すやうに、急に再び疎々《うと/\》しくなつたことが、彼の責任であることに、彼も気が付いてゐなかつた。
 夕暮の楽しみにしてゐた散歩にも、もう美奈子は楽しんでは、行かなかつた。少くとも、青年は美奈子が同行することを、厭がつてはゐないまでも、決して欣んではゐないだらうと思ふと、彼女はいつも二の足を踏んだ。が、そんなとき、母はどうしても、美奈子一人残しては行かなかつた。彼女が二度も断ると母は屹度《きつと》云つた。
「ぢや、妾《わたし》達も行くのを廃《よ》しませうね。」
 さう云はれると、美奈子も不承々々に、承諾した。
「まあ! そんなに、おつしやるのなら参りますわ。」
 美奈子は口|丈《だけ》は機嫌よく云つて、重い/\鉛のやうな心を、持ちながら、母の後から、従《つ》いて行くのだつた。
 が、ある晩、それは丁度箱根へ来てから、半月も経つた頃だが、美奈子の心は、何時になく滅入つてしまつてゐた。
 母が、どんなに云つても、美奈子は一緒に出る気にはならなかつた。その上、平素《いつも》は、青年も口先|丈《だけ》では、母と一緒に勧めて呉れるのが、その晩に限つて、たつた一言も勧めて呉れなかつた。
「妾《わたくし》、今夜はお友達に手紙を書かうと思つてゐますの。」
 美奈子は、到頭そんな口実を考へた。
「まあ! 手紙なんか、明日の朝書くといゝわ。ね、いらつしやい。二人|丈《だけ》ぢやつまらないのですもの! ねえ、青木さん!」
 さう云はれて、青年は不服さうに肯いた。青年のさうした表情を見ると、美奈子は何うしても断らうと決心した。

        二

「でも、妾《わたくし》、今晩だけは失礼させて、いたゞきますわ。一人でゆつくり、お手紙をかきたいと思ひますの。」
 美奈子が、可なり思ひ切つて、断るのを見ると、母はさまで
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