い。殊に、今は死んだ青年の葬儀から帰つたばかりであるから、此の夫人も、きつと青年のことを考へてゐるに違《ちがひ》ない。其処へ、自分が青年の名に依つて尋ねて行けば、案外快く引見するに違ひない。さう考へると信一郎は崩れかゝつた勇気を振ひ興して、五番町の表通と横町とを軒並に、物色して歩いた。彼は、五番町の総てを漁《あさ》つた。が、何処にも、荘田と云ふ表札は、見出さなかつた。三十分近く無駄に歩き廻つた末、彼は到頭通り合はした御用聴らしい小僧に尋ねた。
「荘田さんですか。それぢやあの停留場の直ぐ前の、白煉瓦の洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は言下に教へて呉れた。
 その家は、信一郎にも最初から判つてゐた。信一郎は、電車から降りたとき、直ぐその家に眼を与《や》つたのであるが、花崗岩らしい大きな石門から、楓の並樹の間を、爪先上りになつてゐる玄関への道の奥深く、青い若葉の蔭に聳ゆる宏壮な西洋館が――大きい邸宅の揃つてゐる此界隈でも、他の建物を圧倒してゐるやうな西洋館が荘田夫人の家であらうとは夢にも思はなかつた。
 彼は、予想以上に立派な邸宅に気圧《けお》されながら、暫らくはその門前に佇立した。玄関への青い芝生の中の道が、曲線をしてゐる為に車寄せの様子などは、見えなかつたが、ゴシック風の白煉瓦の建物は瀟洒に而も荘重な感じを見る者に与へた。開け放した二階の窓にそよいでゐる青色の窓掩ひが、如何にも清々しく見えた。二階の縁側《ヴェランダ》に置いてある籐椅子には、燃ゆるやうな蒲団《クション》が敷いてあつて、此家の主人公が、美しい夫人であることを、示してゐるやうだ。
 入らうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思ひ悩んだ。手紙で訊き合して見ようか、それでも事は足りるのだと思つたりした。彼が、宏壮な邸宅に圧迫されながら思はず踵《きびす》を廻《かへ》さうとした時だつた。噴泉の湧くやうに、突如として樹の間から洩れ始めた朗々たるピアノの音が信一郎の心をしつかと掴んだのである。

        七

 樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの夜曲《ノクチュルン》だつた。彼は、廻《かへ》さうとした踵《きびす》を、釘付けにされて、暫らくはその哀艶な響に、心を奪はれずにはゐられなかつた。嫋々たるピアノの音は、高く低く緩やかに劇しく、時には若葉の梢を馳け抜ける五月の風のやうに囁き、時には青い月光の下に、俄に迸り出でたる泉のやうに、激した。その絶えんとして、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となつて、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛の吐き出す糸のやうに、蠱惑的に彼の心を囚へた。
 彼の心に、鍵盤《キイ》の上を梭《をさ》のやうに馳けめぐつてゐる白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去つた刹那の白い輝かしい顔が浮んだ。
 彼は時計を返すなどと云ふことより、兎に角も、夫人に逢ひたかつた。たゞ、訳もなく、惹き付けられた。たゞ、会ふことが出来さへすれば、その事|丈《だけ》でも、非常に大きな欣びであるやうに思つた。
 躊躇してゐた足を、踏み返した。思ひ切つて門を潜つた。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のやうに、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでゐる車寄せで、彼は一寸躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもう扉《ドア》の横に取付けてある呼鈴に触れてゐた。
 茲まで来ると、ピアノの音は、愈《いよ/\》間近く聞えた。その冴えた触鍵《タッチ》が、彼の心を強く囚へた。
 呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安の裡に、一分ばかり待つてゐた。その時、小さい靴の足音がしたかと思ふと扉《ドア》が静かに押し開けられた。名刺受の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。
「奥さまに、一寸お目にかゝりたいと思ひますが、御都合は如何で厶《ござ》いませうか。」
 彼は、さう云ひながら、一枚の名刺を渡した。
「一寸お待ち下さいませ。」
 少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、栗鼠《りす》のやうに、すばしこく馳け上つた。
 信一郎は少年の後を、ぢつと見送つてゐた。骰子《さい》は投げられたのだと云つたやうな、思ひ詰めた心持で、その二階に消える足音を聞いてゐた。
 忽ちピアノの音が、ぱつたりと止んだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知つたと云ふことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を凝《こら》してゐた。が、ピアノの鳴る代りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌のよい微笑《わらひ》を浮べた少年は、トン/\と飛ぶやうに階段を馳け降りて来た。
「一体、何う云ふ御用で厶いませうか。一寸聞かしていたゞくやうに、仰しやいました。」
 信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会ふ確な望みを得た。
「今日、お葬式がありました青木淳氏のことで、一寸お目にかゝりたいのですが……」と、云つた。少年は、又勢ひよく階段を馳け上つて行つた。今度は、以前のやうに早くは、馳け降りて来なかつた。会はうか会ふまいかと、夫人が思案してゐる様子が、あり/\と感ぜられた。五分近くも経つた頃だらう。少年はやつと、二階から馳け降りて来た。
「御紹介状のない方には、何方《どなた》にもお目にかゝらないことにしてあるのですが、貴君《あなた》様を御信用申上げて、特別にお目にかゝるやうに仰しやいました。どうぞ、此方へ。」と、少年は信一郎を案内した。玄関を上つた処は、広間だつた。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、可なり精緻な模写が掲げてあつた。


 女王蜘蛛

        一

 信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面してゐる広い明るい部屋だつた。花模様の青い絨氈の敷かれた床の上には、桃花心木《マホガニイ》の卓子《テーブル》を囲んで、水色の蒲団《クション》の取り附けてある腕椅子《アームチェイア》が五六脚置かれてゐる。壁に添うて横はつてゐる安楽椅子の蒲団《クション》も水色だつた。窓掩ひも水色だつた。それが純白の布で張られてゐる周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯に充ちてゐた。信一郎は勧められるまゝに、扉《ドア》を後にして、椅子に腰を下すと、落着いて部屋の装飾を見廻した。三方の壁には、それ/″\新しい油絵が懸つてゐた。左手《ゆんで》の壁にかゝつてゐるのは、去年の二科の展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝のある洋画家の水浴する少女の裸体画だつた。此家の女主人公が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会上の因襲に囚はれてゐないことを示してゐるやうに、画中の少女は、一糸も纏つてゐない肉体を、冷たさうな泉の中に、その両膝の所迄、オヅ/\と浸してゐるのであつた。その他|卓子《テーブル》の上に置いてある灰皿にも、炉棚《マンテルピース》の上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、此家の女主人公の繊細な鋭い趣味が、一々現はれてゐるやうに思はれた。
 杜絶えたピアノの音は、再び続かなかつた。が、その音の主は、なか/\姿を現はさなかつた。少年が茶を運んで来た後は、暫らくの間、近づいて来る人の気勢《けはひ》もなかつた。三分経ち、五分経ち、十分経つた。信一郎の心は、段々不安になり、段々いら/\して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であつたやうに、悔いられた。
 その裡に、ふと気が付くと、正面の炉棚《マンテルピース》の上の姿見に、自分の顔が映つてゐた。彼が何気なく自分の顔を見詰めてゐた時だつた。ふと、サラ/\と云ふ衣擦れの音がしたかと思ふと、背後《うしろ》の扉《ドア》が音もなく開かれた。信一郎が、周章《あわて》て立ち上がらうとした時だつた。正面の姿見に早くも映つた白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然《えんぜん》たる微笑の会釈を投げたのである。
「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰つて、まだ着替へも致してゐなかつたのですもの。」
 長い間の友達にでも云ふやうな、男を男とも思つてゐないやうな夫人の声は、媚羞と狎々《なれ/\》しさに充ちてゐた。しかも、その声は、何と云ふ美しい響と魅力とを持つてゐただらう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまつた。
「いや突然伺ひまして……」と、彼は立ち上りながら答へた。声が、妙に上ずツて、少年か何かのやうに、赤くなつてしまつた。
 深海色にぼかした模様の錦紗縮緬の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体を、くねらせるやうに、椅子に落着けた。
「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも淳さんのやうに、あんなに不意に、死んでは堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のやうでございますもの。」
 初対面の客に、ロク/\挨拶もしない中《うち》に、夫人は何のこだはりもないやうに、自由に喋べり続けた。信一郎は、夫人からスツカリ先手を打たれてしまつて、暫らくは何《なん》にも云ひ出せなかつた。彼は我にもあらず、十分受け答もなし得ないで、たゞモヂ/\してゐた。夫人は、相手のさうした躊躇などは、眼中にないやうに、自由で快活だつた。
「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄でございましたよ。五黄の申《さる》でございませうかしら。妾《わたし》と同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホヽヽヽヽ。」
 信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸つたやうに、話手の美しさに酔《ゑ》ひながら、暫らくは茫然としてゐた。

        二

 夫人は、口でこそ青年の死を悼んでゐるものゝ、その華やかな容子や、表情の何処にも、それらしい翳さへ見えなかつた。たゞ一寸した知己の死を、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己の死を、話してゐるのに過ぎなかつた。信一郎は、可なり拍子抜けがした。瑠璃子と云ふ名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、如何なる意味かで、青年と深い交渉があるだらうと思つたのは、自分の思ひ違ひかしら。夫人の容子や態度が、示してゐる通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。さう、疑つて来ると、信一郎は、青年の死際の囈語《うはごと》に過ぎなかつたかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかつた態度が気恥しくて堪らなくなつて来た。彼は、夫人に会へば、かう云はうあゝ云はうと思つてゐた言葉が、咽喉にからんでしまつて、たゞモヂ/\興奮するばかりだつた。
「妾《わたくし》、今日すつかり時間を間違へてゐましてね。気が付くと、三時過ぎでございませう。驚いて、自動車で馳せ付けましたのよ。あんなに遅く行つて、本当にきまりが悪うございましたわ。」
 その癖、夫人はきまりが悪かつたやうな表情は少しも見せなかつた。あの葬場でも、それを思ひ出してゐる今も。若い美しい夫人の何処に、さうした大胆な、人を人とも思はないやうな強い所があるのかと、信一郎はたゞ呆気に取られてゐる丈《だけ》であつた。先刻からの容子を見ると、信一郎が何のために、訪ねて来てゐるかなどと云ふことは、丸切り夫人の念頭にないやうだつた。信一郎の方も、訪ねて来た用向をどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼は漸く心を定めて、オヅ/\話し出した。
「実は、今日伺ひましたのは、死んだ青木君の事に就てでございますが……」
 さう云つて、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかゞ、見たかつたのである。が、夫人は無雑作だつた。
「さう/\取次の者が、そんなことを申してをりました。青木さんの事つて、何でございますの?」
 帝劇で見た芝居の噂話をでもしてゐるやうに夫人の態度は平静だつた。
「実は、貴女《あなた》さまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさへ私には分らないのです、もし、人違《ひとちがひ》だつたら、何《ど》うか御免下さい。」
 信一郎は、女王の前に出た騎士のや
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