顔形は、美しいと云つても、昔からある日本婦人の美しさではなかつた。それは、日本の近代文明が、初《はじめ》て生み出したやうな美しさと表情を持つてゐた。明治時代の美人のやうに、個性のない、人形のやうな美しさではなかつた。その眸は、飽くまでも、理智に輝いてゐた。顔全体には、爛熟した文明の婦人に特有な、智的な輝きがあつた。
 婦人席で多くの婦人の中に立つてゐながら、此の女性の背後|丈《だけ》には、ほの/″\と明るい後光が、射してゐるやうに思はれた。
 年頃から云へば娘とも思はれた。が、何処かに備はつてゐる冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示してゐるやうに思はれた。
 信一郎が、此の女性の美貌に対する耽美に溺れてゐる裡に、葬式のプログラムはだん/\進んで行つた。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、此の女性もしとやかに席を離れて死者の為に一抹の香を焚いた。
 やがて式は了つた。会葬者に対する挨拶があると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前には俥と自動車とが暫くは右往左往に、入り擾れた。
 信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取残された。彼は群衆に押されながら、意識して、彼の女性に近づいた。
 女性が、式場を出外《では》づれると、彼女はそこで、四人の大学生に取り捲かれた。大学生達は皆死んだ青年の学友であるらしかつた。彼女は何か二言三言言葉を換すと乗るべき自動車に片手をかけて、華やかな微笑を四人の中の、誰に投げるともなく投げて、その娜《しな》やかな身を飜して忽ち車上の人となつたが、つと上半身を出したかと思ふと、
「本当にさう考へて下さつては、妾《わたくし》困りますのよ。」と、嫣然《えんぜん》と云ひ捨てると、扉《ドア》をハタと閉ぢたが自動車はそれを合図に散りかゝる群衆の間を縫うて、徐ろに動き始めた。
 大学生達は、自動車の後を、暫らく立ち止つて見送ると、その儘肩を揃へて歩き出した。信一郎も学生達の後を追つた。学生達に話しかけて、此女性の本体を知ることが時計の持主を知る、唯一の機会であるやうに思つたからである。
 学生達は、電車に乗る積《つもり》だらう。式場の前の道を、青山三丁目の方へと歩き出したのであつた。信一郎は、それと悟られぬやう一間ばかり、間隔を以て歩いてゐた。が、学生達の声は、可なり高かつた。彼等の会話が、切れ切れに信一郎にも聞えて来た。
「青木の変死は、偶然だと云へばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、直ぐ自殺ぢやないかと思つたよ。」と、一番肥つてゐる男が云つた。
「僕もさうだよ。青木の奴、やつたな! と思つたよ。」と、他の背の高い男は直ぐ賛成した。

        四

「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全く変だつたよ。」と、たゞ一人夏外套を着てゐる男が云つた。
 信一郎は、さうした学生の会話に、好奇心を唆られて、思はず間近く接近した。
「兎に角、ヒドく悄気《しよげ》てゐたことは、事実なんだ。誰かに、失恋したのかも知れない。が、彼奴の事だから誰にも打ち明けないし、相手の見当は、サツパリ付かないね。」と、肥つた男が云つた。
 さう聞いて見ると、信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度を直ぐ思ひ出した。その悲しみに閉された面影がアリ/\と頭に浮んだ。
「相手つて、まさか我々の荘田《しやうだ》夫人ぢやあるまいね。」と、一人が云ふと、皆高々と笑つた。
「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。
 其処は、もう三丁目の停留場だつた。四人連の内の三人は、其処に停車してゐる電車に、無理に押し入るやうにして乗つた。たゞ、後に残つた一人|丈《だけ》、眼鏡をかけた、皆の話を黙つて聴いてゐた一人だけ、友達と別れて、電車の線路に沿うて、青山一丁目の方へ歩き出した。信一郎は、その男の後を追つた。相手が、一人の方が、話しかけることが、容易であると思つたからである。
 半町ばかり、付いて歩いたが、何《ど》うしても話しかけられなかつた。突然、話しかけることが、不自然で突飛であるやうに思はれた。彼は、幾度も中止しようとした。が、此機会を失しては、時計を返すべき緒《いとぐち》が、永久に見付け得られないやうにも思つた。信一郎は到頭思ひ切つた。先方が、一寸振り返るやうにしたのを機会に、つか/\と傍へ歩き寄つたのである。
「失礼ですが、貴君《あなた》も青木さんのお葬ひに?」
「さうです。」先方は突然な問を、意外に思つたらしかつたが、不愉快な容子は、見せなかつた。
「やつぱりお友達でいらつしやいますか。」信一郎はやゝ安心して訊いた。
「さうです。ずつと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」
「なるほど。それぢや、嘸《さぞ》お力落しでしたらう。」と云つてから、信一郎は少し躊躇してゐたが、「つかぬ事を、承はるやうですが、今|貴君《あなた》方と話してゐた婦人の方ですね。」と云ふと、青年は直ぐ訊き返した。
「あの自動車で、帰つた人ですか。あの人が何うかしたのですか。」
 信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。
「いや、何《ど》うもしないのですが、あの方は何と仰《おつ》しやる方でせう。」
 学生は、一寸信一郎を憫れむやうな微笑を浮べた。ホンの瞬間だつたけれども、それは知るべきものを知つてゐない者に見せる憫れみの微笑だつた。
「あれが、有名な荘田夫人ですよ。御存じなかつたのですか。曾《かつ》て司法大臣をした事のある唐沢男爵の娘ですよ。唐沢さんと云へば、青木君のお父様と、同じ団体に属してゐる貴族院の老政治家ですよ。お父様同士の関係で、青木君とは近しかつたんです。」
 さう云はれて見ると、信一郎も、荘田夫人なるものゝ写真や消息を婦人雑誌や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思ひ出した。が、それに対して、何の注意も払つてゐなかつたので、その名前は何うしても想ひ浮ばなかつた。が、此の場合名前まで訊くことが、可なり変に思はれたが、信一郎は思ひ切つて訊ねた。
「お名前は、確か何とか云はれたですね。」
「瑠璃子ですよ、我々は、玉桂《たまかつら》の瑠璃子夫人と云つてゐますよ。ハヽヽヽ。」と、学生は事もなげに答へた。

        五

 葬場に於ける遅参者が、信一郎の直覚してゐた通《とほり》、瑠璃子と呼ばるゝ女性であることが、此大学生に依つて確められると、彼はその女性に就いて、もつといろ/\な事が知りたくなつた。
「それぢや、青木君とあの瑠璃子夫人とは、さう大したお交際《つきあひ》でもなかつたのですね。」
「いやそんな事もありませんよ。此半年ばかりは、可なり親しくしてゐたやうです。尤もあの奥さんは、大変お交際《つきあひ》の広い方で、僕なども、青木君同様可なり親しく、交際してゐる方です。」
 大学生は、美貌の貴婦人を、知己の中に数へ得ることが、可なり得意らしく、誇らしげにさう答へた。
「ぢや、可なり自由な御家庭ですね。」
「自由ですとも、夫の勝平氏を失つてからは、思ふまゝに、自由に振舞つてをられるのです。」
「あ! ぢや、あの方は未亡人ですか。」信一郎は、可なり意外に思ひながら訊いた。
「さうです。結婚してから半年か其処らで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂つたのです。今では、荘田家はあの奥さんと、美奈子と云ふ十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として荘田家を切廻してゐるのです。」
「なるほど。それぢや、後妻に来られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事毎に意外に感じながらさう呟いた。
 大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来てゐた。学生は、今発車しようとしてゐる塩町行の電車に、乗りたさうな容子を見せた。
 信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。
「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかゝりたいと思ふのですが、紹介して下さる訳には……」と、言葉を切つた。
 大学生は、信一郎のさうしたやゝ不自然な、ぶつきら棒な願ひを、美貌の女性の知己になりたいと云ふ、世間普通な色好みの男性の願と、同じものだと思つたらしく、一寸嘲笑に似た笑ひを洩さうとしたが、直ぐそれを噛み殺して、
「貴君の御身分や、御希望を精しく承らないと、僕として一寸紹介して差上げることは出来ません。尤も、荘田夫人は普通の奥さん方とは違ひますから、突然尋ねて行かれても、屹度《きつと》逢つて呉れるでせう。御宅は、麹町の五番町です。」
 さう云ひ捨てると、その青年は身体を捷《すばしこ》く動かしながら、将に動き出さうとする電車に巧に飛び乗つてしまつた。
 信一郎は、一寸おいてきぼりを喰つたやうな、稍々《やゝ》不快な感情を持ちながら、暫らく其処に佇立した。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのやうであつたのが、恥しかつた。どんなに、あの女性の本名が知りたくてももつと上品な態度が取れたのにと思つた。
 が、さうした不愉快さが、段々消えて行つた後に、瑠璃子と云ふ女性の本体を掴み得た満足が其処にあつた。而も、瑠璃子と云ふ女性が、今も尚ハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持つて来た時計の持主らしい。凡ての資格を備へてゐることが何よりも嬉しかつた。短剣を鏤めた白金《プラチナ》の時計と、今日見た瑠璃子夫人の姿とは、ピツタリと合ひすぎるほど、合つてゐた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は屹度、死んだ青年に対する哀悼の涙を浮べながら、あの時計を受取つて呉れるに違《ちがひ》ない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違《ちがひ》ない。さう思ふと、信一郎の瞳にあざやかな夫人の姿が、歴々《あり/\》と浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢ひたくなつた。其処へ、彼のさうした決心を促すやうに、九段両国行きの電車が、軋《きし》つて来た。此電車に乗れば、麹町五番町迄は、一回の乗換さへなかつた。

        六

 電車が、赤坂見附から三宅坂通り、五番町に近づくに従つて、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな姿勢《ポーズ》を取つて、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方が、より多く彼の心を占めてゐるのに気が付いた。彼は自分の心持の中に、不純なものが交りかけてゐるのを感じた。『お前は時計を返す為に、あの夫人に逢ひたがつてゐるのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢ひたがつてゐるのではないか。』と云ふ叱責に似た声を、彼は自分の心持の中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑はしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、たゞ青年の遺言|通《どほり》に、時計を真の持主に返せばいゝのだ。荘田瑠璃子が、どんな女性であらうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。たゞ、夫人が本当に時計の持主であるかどうかゞ、問題なのだ。自分はそれを確めて、時計を返しさへすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、さう強く思ひ切らうとした。が、幾何《いくら》強く思ひ切らうとしても、白孔雀を見るやうな、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた若き夫人の姿は、彼が思ふまいとすればするほど、愈《いよ/\》鮮明に彼の眼底を去らうとはしなかつた。
 青い葉桜の林に、キラ/\と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂つたお濠の堤《どて》に沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼の眼の前に五番町の広い通《とほり》が、午後の太陽の光の下に白く輝いてゐた。彼は、一寸した興奮を感じながらも、暫くは其処に立ち止まつた。紳士として、突然訪ねて行くことが、余りにはしたない[#「はしたない」に傍点]やうにも思はれた。手紙位で、一応面会の承諾を得る方が、自然で、かつは礼儀ではないかと思つたりした。が、さうした順序を踏んで相手が、会はないと云へば、それ切りになつてしまふ。少しは不自然でも、直截に訪問した方が、却つて容易に会見し得るかも知れな
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