の最期も、出来るならば話すまいとした。それは優しい妻の胸には、鋭すぎる事実だつた。
 藤木川の左岸に添うて走つた馬車が、新しい木橋を渡ると、橋袂の湯の宿の玄関に止まつた。
「奥様がお待ち兼で厶《ござ》います。」と、妻に付けてある女中が、宿の女中達と一緒に玄関に出迎へた。ふと気が付くと、玄関の突き当りの、二階への階段の中段に、降りて出迎へようか(それともそれが可なりはした[#「はした」に傍点]ない事なので)降りまいかと、躊躇《ためら》つてゐたらしい静子が、信一郎の顔を見ると、艶然と笑つて、はち切れさうな嬉しさを抑へて、いそ/\と駈け降りて来るのであつた。
「いらつしやいませ。何うして、かう遅かつたの。」静子は一寸不平らしい様子を嬉しさの裡に見せた。
「遅くなつて済まなかつたね。」
 信一郎は、劬《いた》はるやうに云ひ捨てゝ、先に立つて妻の部屋へ入つた。
 その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏外套のポケットに入れてゐるのに、気が付いた。先刻真鶴まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう/\と思ひながら、小使の手前、何うしても果し得なかつたのである。当惑の為に、彼の表情はやゝ曇つた。
「御気分が悪さうね。何うかしたのですか。湯衣《ゆかた》にお着換へなさいまし。それとも、お寒いやうなら褞袍《どてら》になさいますか。」
 さう云ひながら静子は甲斐々々しく信一郎の脱ぐ上衣を受け取つたり、襯衣《シャツ》を脱ぐのを手伝つたりした。
 その中に、上衣を衣桁《いかう》にかけようとした妻は、ふと、
「あれ!」と、可なりけたゝましい声を出した。
「何うしたのだ。」信一郎は驚いて訊いた。
「何でせう。これは、血ぢやなくて。」
 静子は、真蒼になりながら、洋服の腕のボタンの所を、電燈の真近に持つて行つた。それは紛ぎれもなく血だつた。一寸四方ばかり、ベツトリと血が浸《に》じんでゐたのである。
「さうか。やつぱり付いてゐたのか。」
 信一郎の声も、やゝ顫ひを帯びてゐた。
「何《ど》うかしたのですか。何うかしたのですか。」気の弱い静子の声は、可なり上ずツてゐた。
 信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答へた。
「いや何うもしないのだ。たゞ、自動車が崖にぶつ突《つ》かつてね。乗合はしてゐた大学生が負傷したのだ。」
「貴君《あなた》は、何処もお負傷《けが》はなかつたのですか。」
「運がよかつたのだね。俺は、かすり傷一つ負はなかつたのだ。」
「そしてその学生の方は。」
「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云ふんだね。」
 静子は、夫が免れた危険を想像する丈《だ》けで、可なり激しい感動に襲はれたと見え、目を刮《みは》つたまゝ暫らくは物も云はなかつた。
 信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢つたのは、大学生ばかりではないやうな気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい禍であるやうに思つた。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依つて、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだやうな気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢ひながら、優しい言葉一つさへ、かけてやる事が出来なかつた。
 夫と妻とは、蒼白《まつさを》になりながら、黙々として相対してゐた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔の符でもあるやうに、気味悪く感ぜられ始めた。


 美しき遅参者

        一

 青年の横死は、東京の各新聞に依つて、可なり精しく伝へられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵の長子であつたことが、それに依つて証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも洩してゐた。信一郎は結局それを気安いことに思つた。
 信一郎が、静子を伴つて帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行はれることになつてゐた。
 信一郎は、自分が青年の最期を介抱した当人であると云ふ事を、名乗つて出るやうな心持は、少しもなかつた。が、自分の手を枕にしながら、息を引き取つた青年が、傷ましかつた。他人でないやうな気がした。十年の友達であるやうな気がした。その人の面影を偲ぶと、何となくなつかしい涙ぐましい気がした。
 遺族の人々とは、縁もゆかり[#「ゆかり」に傍点]もなかつた。が、弔はれてゐる人とは、可なり強い因縁が、纏はつてゐるやうに思つた。彼は、心からその葬ひの席に、列りたいと思つた。
 が、その上、もう一つ是非とも、列るべき必要があつた。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子と呼ばるゝ女性も、返すべき時計の真の持主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな列つてゐるのに違《ちがひ》ない。青年に、由縁《ゆかり》のある人を物色すれば、時計を返すべき持主も、案外容易に、見当が付くに違《ちがひ》ない。否、少くとも瑠璃子と云ふ女|丈《だけ》は、容易に見出し得るに違《ちがひ》ない、信一郎はさう考へた。
 その日は、廓然と晴れた初夏の一日だつた。もう夏らしく、白い層雲が、むく/\と空の一角に湧いてゐた。水色の空には、強い光が、一杯に充ち渡つて、生々の気が、空にも地にも溢れてゐた。たゞ、青山の葬場に集まつた人|丈《だけ》は、活々とした周囲の中に、しめつぽい静かな陰翳を、投げてゐるのだつた。
 青年の不幸な夭折が、特に多くの会葬者を、惹き付けてゐるらしかつた。信一郎が、定刻の三時前に行つたときに、早くも十幾台の自動車と百台に近い俥が、斎場の前の広い道路に乗り捨てゝあつた。控席に待合はしてゐる人々は、もう五百人に近かつた。それだのに、自動車や俥が、幾台となく後から/\到着するのだつた。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部である為に、政界の巨頭は、大抵網羅してゐるらしかつた。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、信一郎にも直ぐそれと判つた。葉巻を横|銜《くは》へにしながら、場所柄をも考へないやうに哄笑してゐる巨漢は、逓信大臣のN氏だつた。それと相手になつてゐるのは、戦後の欧洲を、廻つて来て以来、風雲を待つてゐるらしく思はれてゐるG男爵だつた。その外首相の顔も見えた。内相もゐた。陸相もゐた。実業界の名士の顔も、五六人は見覚えがあつた。が、見渡したところ信一郎の知人は一人もゐなかつた。彼は、受附へ名刺を出すと、控場の一隅へ退いて、式の始まるのを待つてゐた。
 誰も彼に、話しかけて呉れる人はなかつた。接待をしてゐる人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、信一郎には、たゞ儀礼的な一揖を酬いただけだつた。
 誰からも、顧みられなかつたけれども、信一郎の心には、自信があつた。千に近い会葬者が、集まらうとも、青年の臨終に侍したのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けてゐるのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けてゐるのは自分一人ではないか。その死床に侍して介抱してやつたのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交上の会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなに欣ぶかも知れない。さう思ふと、信一郎は自分の会葬が、他の何人《なんぴと》の会葬よりも、意義があるやうに思つた。彼はさうした感激に耽りながら、ぢつと会葬者の群を眺めてゐた。急に、皆が静かになつたかと思ふと、戞々《かつ/\》たる馬蹄の響がして、霊柩を載せた馬車が遺族達に守られて、斎場へ近づいて来るのだつた。

        二

 霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、七八台も続いた。信一郎は、群衆を擦り脱けて、馬車の止まつた方へ近づいた。次ぎ/\に、馬車を降りる一門の人々を、仔細に注視しようとしたのである。
 霊柩の直ぐ後の馬車から、降り立つたのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であつた。一目見ると、横死した青年の肉親の弟である事が、直ぐ判つた。それほど、二人はよく似てゐた。たゞ学習院の制服を着てゐる此青年の背丈が、国府津で見たその人の兄よりも、一二寸高いやうに思はれた。
 その次ぎの馬車からは、二人の女性が現はれた。信一郎は、その孰《いづ》れかゞ瑠璃子と呼ばれはしないかと、熱心に見詰めた。二人とも、死んだ青年の妹であることが、直ぐ判つた。兄に似て二人とも端正な美しさを持つてゐた。年の上の方も、まだ二十を越してゐないだらう。その美しい眼を心持泣き脹して、雪のやうな喪服を纏うて、俯きがちに、しほたれて歩む姉妹の姿は、悲しくも亦美しかつた。
 それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であらう、白無垢を着た貴婦人が、一人二人宛降り立つた。信一郎は、その裡の誰かゞ、屹度《きつと》瑠璃子に違ひないと思ひながら、一人から他へと、慌《あわたゞ》しい眼を移した。が、たゞいら/\する丈《だけ》で、ハツキリと確める術は、少しもなかつた。
 霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ雪崩《なだ》れ入つた。手狭な式場は見る見る、一杯になつた。
 式が始まる前の静けさが、其処に在つた。会葬者達は、銘々慎しみの心を、表に現はして紫や緋の衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視してゐるのであつた。
 式場が静粛に緊張して、今にも読経の第一声が、この静けさを破らうとする時だつた。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないやうなけたゝましい、自動車の響が場外に近づいた。祭壇に近い人々は、遉《さすが》に振向きもしなかつた。が、会葬者の殆ど過半が、此無遠慮な闖入者に対して叱責に近い注視を投げたのである。
 自動車は、式場の入口に横附けにされた。伊太利《イタリー》製らしい、優雅な自動車の扉が、運転手に依つて排せられた。
 会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないやうに、翼を拡げた白孔雀のやうな、け高さと上品さとで、その踏段から地上へと、スツクと降り立つたのは、まだうら若い一個の女性だつた。降りざまに、その面《おもて》を掩うてゐた黒い薄絹のヴェールを、かなぐり捨てゝ、無造作に自動車の中へ投げ入れた。人々の環視の裡に、微笑とも嬌羞とも付かぬ表情を、湛へた面《おもて》は、くつきりと皎《しろ》く輝いた。
 白襟紋付の瀟洒な衣《きぬ》は、そのスラリとした姿を一層気高く見せてゐた。彼女は、何の悪怯《わるび》れた容子も見せなかつた。打ち並ぶ名士達の間に、細く残された通路を、足早に通り抜けて、祭壇の右の婦人達の居並ぶ席に就いた。
 会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、此の美しい無遠慮な遅参者の姿を追つた。が、さうした眼の中でも、信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いてゐたのである。
 彼は、何よりも先きに、此女性の美しさに打たれた。年は二十《はたち》を多くは出てゐなかつたゞらう。が、さうした若い美しさにも拘はらず、人を圧するやうな威厳が、何処かに備はつてゐた。
 信一郎は、頭の中で自分の知つてゐる、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、此婦人の美しさを、少しでも冒すことは出来なかつた。
 泰西の名画の中からでも、抜け出して来たやうな女性を、信一郎は驚異に似た心持で暫らくは、茫然と会衆の頭越しに見詰めてゐたのである。

        三

 信一郎が、その美しき女性に、釘付けにされたやうに、会葬者の眸も、一時は此の女性の身辺に注がれた。が、その裡に、衆僧が一斉に始めた読経の朗々たる声は、皆の心持を死者に対する敬虔な哀悼に引き統《す》べてしまつた。
 が、此女性が、信一郎の心の裡に起した動揺は、お経の声などに依つて却々《なか/\》静まりさうにも見えなかつた。
 彼は、直覚的に此女性が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持つてゐることを信じた。此女性の美しいけれども颯爽たる容姿が、あの返すべき時計に鏤刻《るこく》されてゐる、鋭い短剣の形を想ひ起さしめた。彼は、読経の声などには、殆ど耳も傾けずに、群衆の頭越しに、女性の姿を、懸命に見詰めたのである。
 が、見詰めてゐる中《うち》に、信一郎の心は、それが瑠璃子であるか、時計の持主であるかなどと云ふ疑問よりも、此の女性の美しさに、段々囚はれて行くのだつた。
 此の女性の
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