うに慇懃だつた。が、夫人は卓上に置いてあつた支那製の団扇《うちわ》を取つて、煽ぐともなく動かしながら、
「ホヽヽ何のお話か知りませんが大層面白くなりさうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違ひでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら云つた。
信一郎は、夫人の真面目とも不真面目とも付かぬ態度に揶揄れたやうに、まごつきながら云つた。
「実は、私は青木君のお友達ではありません。只偶然、同じ自動車に乗り合はしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」
「ほゝう貴君《あなた》さまが……」
さう云つた夫人の顔は、遉《さすが》に緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、直ぐ身を躱《かは》すやうに、以前の無関心な態度に帰らうとした。
「さう! まあ何と云ふ奇縁でございませう。」
その美しい眼を大きく刮《ひら》きながら、努めて何気なく云はうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだはりがあるやうに思はれた。
「それで、実は青木君の死際の遺言を聴いたのです。」
信一郎は、夫人の示した僅かばかりの動揺に力を得て突つ込むやうにさう言つた。
「遺言を貴君《あなた》さまが、ほゝう。」
さう云つた夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ/\と読まれた。
三
今迄は、秋の湖のやうに澄み切つてゐた夫人の容子が、青年の遺言と云ふ言葉を聴くと、急に僅《わづか》ではあるが、擾れ始めた。信一郎は手答へがあつたのを欣んだ。此の様子では、自分の想像も、必ずしも的が外れてゐるとは限らないと、心強く思つた。
「衝突の模様は、新聞にもある通《とほり》ですが、それでも負傷から臨終までは、先づ三十分も間がありましたでせう。その間、運転手は医者を呼びに行つてゐましたし、通りかゝる人はなし、私一人が臨終に居合はしたと云ふわけですが、丁度息を引き取る五分位前でしたらう、青木君は、ふと右の手首に入れてゐた腕時計のことを言ひ出したのです。」
信一郎が、茲まで話したとき、夫人の面《おもて》は、急に緊張した。さうした緊張を、現すまいとしてゐる夫人の努力が、アリ/\と分つた。
「その時計を何《ど》うしようと、云はれたのでございますか。その時計を!」
夫人の言葉は、可なり急き込んでゐた。其の美しい白い顔が、サツと赤くなつた。
「その時計を返して呉れと云はれるのです。是非返して呉れと云はれるのです。」信一郎も、やゝ興奮しながら答へた。
「誰方《どなた》にでございませうか。誰方に返して呉れと云はれたのでございませうか。」
夫人の言葉は、更に急《せ》き込んでゐた。一度赤くなつた顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい瞳までが鋭い光を放つて、信一郎の答へいかにと、見詰めてゐるのだつた。
信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるやうにして云つた。
「それが誰にとも分らないのです。」
夫人の顔に現れてゐた緊張が、又サツと緩んだ。暫らく杜絶えてゐた微笑が、ほのかながら、その口辺に現はれた。
「ぢや、誰方に返して呉れとも仰しやらなかつたのですの。」夫人は、ホツと安堵したやうに、何時の間にか、以前の落着を、取り返してゐた。
「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊いたのですが、もう臨終が迫つてゐたのでせう、私の問には、何とも答へなかつたのです。たゞ臨終に貴女《あなた》のお名前を囈語《うはごと》のやうに二度繰り返したのです。それで、万一|貴女《あなた》に、お心当りがないかと思つて参上したのですが。」
信一郎は、肝腎な来意を云つてしまつたので、ホツとしながら、彼は夫人が何う答へるかと、ぢつと相手の顔を見詰めてゐた。
「ホヽヽヽヽ。」先づ美しいその唇から、快活な微笑が洩れた。
「淳さんは、本当に頼もしい方でいらつしやいましたわ。そんな時にまで私を覚えてゐて下さるのですもの。でも、私《わたくし》、腕時計などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、一寸拝見させていたゞけませんかしら。」
もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかつた。澄み切つた以前の美しさが、帰つて来てゐた。信一郎は、求めらるゝまゝに、ポケットの底から、ハンカチーフに括《くる》んだ謎の時計を取り出した。
「確か女持には違ひないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」
「妹さんのものぢやございませんのでせうか。」夫人は無造作に云ひながら、信一郎の差し出す時計を受取つた。
信一郎は断るやうに附け加へた。
「血が少し附いてゐますが、わざと拭いてありません。衝突の時に、腕環の止金が肉に喰ひ入つたのです。」
さう信一郎が云つた刹那、夫人の美しい眉が曇つた。時計を持つてゐる象牙のやうに白い手が、思ひ做《な》しか、かすかにブル/\と顫へ出した。
四
時計を持つてゐる手が、微かに顫へるのと一緒に、夫人の顔も蒼白く緊張したやうだつた。ほんのもう、痕跡しか残つてゐない血が、夫人の心を可なり、脅かしたやうにも思はれた。
一分ばかり、無言に時計をいぢくり廻してゐた夫人は、何かを深く決心したやうに、そのひそめた[#「ひそめた」に傍点]眉を開いて、急に快活な様子を取つた。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが交つてゐたけれども。
「あゝ判りました。やつと思ひ付きました。」夫人は突然云ひ出した。
「私《わたくし》此時計に心覚えがございますの。持主の方も存じてをりますの。お名前は、一寸申上げ兼ますが、ある子爵の令嬢でいらつしやいますわ。でも、私あの方と青木さんとが、かうした物を、お取り換《かは》しになつてゐようとは、夢にも思ひませんでしたわ。屹度《きつと》、誰方にも秘密にしていらしつたのでございませう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかつたのでございませう。道理で見ず知らずの貴方《あなた》にお頼みになつたのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り換しになつたものを、遺品《かたみ》としてお返しになりたかつたのでは、ございませんかしら。」
夫人は、明瞭に流暢に、何のよどみもなく云つた。が、何処となく力なく空々しいところがあつたが、信一郎は夫人の云ふことを疑ふ確《たしか》な証拠は、少しもなかつた。
「私も、多分さうした品物だらうとは思つてゐたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思ひますが、御名前を教へていたゞけませんでせうか。」
「左様でございますね。」と、夫人は首を傾《かし》げたが、直ぐ「私を信用していたゞけませんでせうか、私が、女同士で、そつと返して上げたいと思ひますのよ。男の方の手からだと、どんなに恥しくお思ひになるか分らないと、存じますのよ。いかゞ?」と、承諾を求めるやうに、ニツコリと笑つた。華やかな艶美な微笑だつた。さう云はれると、信一郎はそれ以上、かれこれ言ふことは出来なかつた。兎に角、謎の品物が思つたより容易に、持主に返されることを、欣ぶより外はなかつた。
「ぢや、貴女《あなた》さまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前|丈《だけ》は、承ることが出来ませんでせうか。貴方さまを、お疑ひ申す訳では決してないのでございますが。」と、信一郎はオヅ/\云つた。
「ホヽヽヽ貴方様も、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、忽ち信一郎を突き放すやうに云つた。その癖、顔一杯に微笑を湛へながら、「恋人を突然奪はれたその令嬢に、同情して、黙つて私に委して下さいませ。私が責任を以て、青木さんの霊《たましひ》が、満足遊ばすやうにお計ひいたしますわ。」
信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかつた。さうした令嬢が、本当にゐるか何うかは疑はれた。が、夫人が時計の持主を、知つてゐることは確かだつた。それが、夫人の云ふ通《とほり》、子爵の令嬢であるか何うかは分らないとしても。
「それでは、お委せいたしますから、何うかよろしくお願ひいたします。」
さう引き退るより外はなかつた。
「確《たしか》にお引き受けいたしましたわ。貴方さまのお名前は、その方にも申上げて置きますわ。屹度、その方も感謝なさるだらうと存じますわ。」
さう云ひながら、夫人はその血の附いた時計を、懐から出した白い絹のハンカチーフに包んだ。
信一郎は、時計が案外容易に片づいたことが、嬉しいやうな、同時に呆気ないやうな気持がした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のやうに立ち上つた。
信一郎が、勧められるのを振切つて、将に玄関を出ようとしたときだつた。夫人は、何かを思ひ付いたやうに云つた。
「あ、一寸お待ち下さいまし。差上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。
五
信一郎が、暇を告げたときには何とも引き止めなかつた夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、信一郎は一寸意外に思ひながら、振り顧つた。
「つまらないものでございますけれども、之《これ》をお持ち下さいまし。」
さう云ひながら、夫人は何時の間に、手にしてゐたのだらう、プログラムらしいものを、信一郎に呉れた。一寸開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであつた。
「御親切に対する御礼は、妾《わたくし》から、致さうと存じてをりますけれど、これはホンのお知己《ちかづき》になつたお印に差し上げますのよ。」
さう云ひながら、夫人は信一郎に、最後の魅するやうな微笑を与へた。
「いたゞいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はその儘ポケットに入れた。
「御迷惑でございませうが、是非お出で下さいませ、それでは、その節またお目にかゝります。」
さう云ひながら、夫人は玄関の扉《ドア》の外へ出て暫らくは信一郎の歩み去るのを見送つてゐるやうであつた。
電車に乗つてから、暫らくの間信一郎は夫人に対する酔《ゑひ》から、醒めなかつた。それは確かに酔心地《ゑひごゝち》とでも云ふべきものだつた。夫人と会つて話してゐる間、信一郎はそのキビ/\した表情や、優しいけれども、のしかゝつて来るやうな言葉に、云ひ知れぬ魅力をさへ感じてゐた。男を男とも思はないやうな夫人に、もつとグン/\引きずられたいやうな、不思議な慾望をさへ感じてゐたのである。
が、さうした酔が、だん/\醒めかゝるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかゝり始めた。夫人の態度か、言葉かの何処かに、嘘偽りがあるやうに思はれてならなかつた。最初冷静だつた夫人が、遺言と云ふ言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫らく見詰めてから、急に持主を知つてゐると云ひ出したりしたことが、今更のやうに、疑念の的になつた。疑つてかゝると、信一郎は大事な青年の遺品《かたみ》を、夫人から体よく捲き上げられたやうにさへ思はれた。従つて、夫人の手に依つて、時計が本当の持主に帰るかどうかさへが、可なり不安に思はれ出した。
その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリ/\と甦つて来た。『時計を返して呉れ』と云ふ言葉の、語調までが、ハツキリと甦つて来た。その叫びは、恋人に恋の遺品《かたみ》を返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だつた。その叫びの裡には、もつと鋭い骨を刺すやうな何物かゞ、混じつてゐたやうに思はれた。『返して呉れ』と云ふ言葉の中に『突つ返して呉れ』と云ふやうな凄い語気を含んでゐたことを思ひ出した。たとひ、死際であらうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはない筈だと思はれた。
さう考へて来ると、瑠璃子夫人の云つた子爵令嬢と青年との恋愛関係は、烟のやうに頼りない事のやうにも思はれた。夫人はあゝした口実で、あの時計を体よく取返したのではあるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体よく取返したのではあるまいか。
が、さう疑つて見たものゝ、それを確める証拠は何もなかつた。それを確めるために、もう一度夫人に会つて見ても、あの夫人の美しい容貌と、溌剌な会話とで、もう一度体よく追
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