は、成るべく聞くまい見まいと思つた。が、さう努めれば努めるほど、青年の言葉やその白皙の面《おもて》に浮ぶ微笑が、悩ましく耳に付いたり、眼についたりした。
青年の面には、歓喜と満足とが充ち溢れてゐるのが、美奈子にも感ぜられた。彼の眼中には、瑠璃子夫人以外のものが、何も映つてゐないことが、美奈子にもあり/\と感ぜられた。母の傍《そば》にゐる自分などは、恐らく青年の眼には、塵ほどにも、芥ほどにも、感ぜられてはゐまいと思ふと、美奈子は烈しい淋しさで胸が掻き擾《みだ》された。
が、それよりも、もつと美奈子を寂しくしたことは、今迄愛情の唯一の拠り処としてゐた母が、たとひ一時ではあらうとも、自分よりも青年の方へ、親しんでゐることだつた。
大船を汽車が出たとき、美奈子は何うにも、堪らなくなつて、向う側の座席が空いたのを幸《さひはひ》に、景色を見るやうな風をして、其処へ席を移した。
母と青年との会話は、もう聞えて来なくなつた。が、一度掻き擾された胸は、たやすく元のやうには癒えなかつた。
彼女は、かうした苦しみを味はひながら、此先一月も過さねばならぬかと思ふと、どうにも堪らないやうに思はれ出した。さうだ! 箱根へ着いて二三日したら、何か口実を見付けて自分|丈《だ》け帰つて来よう。美奈子は、小さい胸の中でさう決心した。
丁度、さう考へてゐたときに、
「美奈子さん! 一寸いらつしやい!」
と、母から何気なく呼ばれた。美奈子は淋しい心を、ぢつと抑へながら、元の座席へ帰つて行つた。顔|丈《だけ》には、強ひて微笑を浮べながら。
「貴女《あなた》! 青木さんと、青山墓地で、会つたことがあるでせう!」
母は、美奈子が坐るのを待つてさう言つた。青年の顔を、チラリと見ると、彼もニコ/\笑つてゐた。美奈子は、何か秘密にしてゐたことを母に見付けられたかのやうに、顔を真赤にした。
「貴女《あなた》は覚えてゐないの?」
母は、美奈子をもつとドギマギさせるやうに言つた、
「いゝえ! 覚えてゐますの。」
美奈子は周章《あわて》て[#「周章《あわて》て」は底本では「周章《あわ》て」]さう言つた。
美奈子は、青年が自分を覚えてゐて呉れたことが、何よりも嬉しかつた。
「青木さんの妹さんが、よく貴女を知つていらつしやるのですつて。ねえ! 青木さん。」
夫人は賛成を求めるやうに、青木の方を振り顧つた。
「さうです。たしか美奈子さんより三四年下なのですが、お顔なんかよく知つてゐるのです。此間も『あれが荘田さんのお嬢さんだ』と言ふものですから一寸驚いたのです。僕の妹を御存じありませんか。」
青年は、初めて親しさうに、美奈子に口を利いた。
「はい、お顔|丈《だけ》は存じてゐますの。」
美奈子は、口の裡で呟くやうに答へた。が、青年から親しく口を利かれて見ると、美奈子の寂しく傷いてゐた心は、緩和薬《バルサム》をでも、塗られたやうになごんでゐた。今まで、恐ろしく寂しく考へられてゐた避暑地生活に、一道の微光が漂つて来たやうに思はれた。
七
それから汽車が、国府津へ着くまで、青年は美奈子に、幾度も言葉をかけた。平素《いつも》妹を相手にしてゐると見えて、その言葉には、女性――殊に年下の女性に対する親しみが、自然に籠つてゐた。青年の一言々々は、美奈子のこじれかからうとした胸を春風のやうに、撫でさするのであつた。美奈子は最初陥つてゐた不快な感情から、いつの間にか、救はれてゐた。自分が、妙にひがんで、嫉妬に似た感情を持つてゐたことを、はしたないとさへ思ひ始めてゐた。
国府津へ着いたとき、もう美奈子は、また元の処女らしい、感情と表情とを取り返してゐた。
国府津のプラットフォームに降り立つた時、瑠璃子は駆け寄つた赤帽の一人に、命令した。
「あの、自動車を用意させておくれ!――さう、一台ぢや、窮屈だから――二台ね、宮の下まで行つて呉れるやうに。」
赤帽が命を受けて馳け去つたときだつた。今まで他の赤帽を指図して手荷物を下させてゐた青年が驚いて瑠璃子の方を振り顧つた。
「奥さん! 自動車ですか。」
青年の語気は可なり真面目だつた。
「さうです。いけないのですか。」
瑠璃子は、軽く揶揄するやうに反問した。
「あんなにお願ひしてあつたのに聴いて下さらないのですか。」
温和《おとな》しい青年は、可なり当惑したやうに、暗い表情をした。
瑠璃子は、華やかに笑つた。
「あら! まだ、あんなことを気にしていらつしやるの。妾《わたし》貴君が冗談に云つていらしつたのかと思つたのですよ。兄さんが、自動車で死なれたからと云つて、自動車を恐がるなんて、迷信ぢやありませんか。男らしくもない。自動車が衝突するなんて、一年に一度あるかないかの事件ぢやありませんか。そんなことを恐れて、自動車に乗らないなんて。」
夫人は、子供の臆病をでも叱するやうに云つた。
「でも、奥さん。」青年は、可なり懸命になつて云つた。「兄が、やつぱり此の国府津から自動車に乗つてやられたのでせう。それからまだ一月も経つてゐないのです。殊に、今度箱根へ行くと云ふと、父と母とが可なり止めるのです。で、やつと、説破《せつぱ》して、自動車には乗らないと云ふ条件で、許しが出たのです。だから、奥さんにも、自動車には乗らないと云つてあれほど申上げて置いたぢやありませんか。」
「お父様やお母様が、さうした御心配をなさるのは、尤《もつとも》と思ひますわ。でも貴君迄が、それに[#「それに」は底本では「それ」]感化《かぶ》れると云ふことはないぢやありませんか。縁起などと、云ふ言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。」
「でも、奥さん! 肉親の者が、命を殞《おと》した殆ど同じ自動車に、まだ一月も経つか経たないかに乗ると云ふことは、縁起だとか何とか云ふ問題以上ですね。貴女だつて、もし近しい方が、自動車であゝした奇禍にお逢ひになると、屹度《きつと》自動車がお嫌ひになりますよ。」
「さうかしら。妾《わたし》は、さうは思ひませんわ。だつてお兄さんだつて妾《わたし》には可なり近しい方だつたのですもの。」
さう云つて夫人は淋しく笑つた。
「でも、いゝぢやありませんか。妾《わたし》と一緒ですもの。それでもお嫌ですか。」
さう云つて、嫣然《えんぜん》と笑ひながら、青年の顔を覗き込む瑠璃子夫人の顔には、女王のやうな威厳と娼婦のやうな媚《こび》とが、二つながら交つてゐた。
瑠璃子の前には、小姓か[#「小姓か」は底本では「小姓が」]何かのやうに、力のないらしい青年は、極度の当惑に口を噤んだまま、その秀でた眉を、ふかく顰めてゐた。背丈こそ高く、容子こそ大人びてゐるが、名門に育つた此の青年が対人的にはホンの子供であることが、瑠璃子にも、マザ/\と分つた。
ある三角関係
一
その裡に、美奈子達の一行は改札口を出てゐた。駅前の広場には、赤帽が命じたらしい自動車が二台、美奈子達の一行を待つてゐた。
青年は、瑠璃子夫人の力に、グイ/\引きずられながらも、自動車に乗ることは、可なり気が進んでゐないらしかつた。
彼は哀願するやうに、オヅ/\と夫人に云つた。
「何うです? 奥さん。僕お願ひなのですが、電車で行つて下さることは出来ないでせうか。兄の惨死の記憶が、僕にはまだマザ/\と残つてゐるのです。兄を襲つた運命が、肉親の僕に、何だか糸を引いてゐるやうに、不吉な胸騒ぎがするのです。何だか、兄と同じ惨禍に僕が知らず識らず近づいてゐるやうな、不安な心持がするのです。」
青年は、可なり一生懸命らしかつた。が、瑠璃子は青年の哀願に耳を傾けるやうな容子も見せなかつた。彼女は、意志の弱い男性を、グン/\自分の思ひ通《どほり》に、引き廻すことが、彼女の快楽の一つであるかのやうに云つた。
「まあ! 貴君のやうに、さうセンチメンタルになると、いやになつてしまひますよ。妾《わたし》は運命だとか胸騒ぎだとか云ふやうな言葉は、大嫌ひですよ。妾《わたし》は徹底した物質主義者《マテリアリスト》です。電車なんか、あんなに混んでゐるぢやございませんか。さあ、乗りませう。いゝぢやございませんの。自動車が崖から落《おつ》こちても、死なば諸共ですわ。貴君《あなた》、妾《わたし》と一緒なら、死んでも本望ぢやなくて? おほゝゝゝゝゝ。」
夫人は、奔放にさう云ひ放つと、青年が何《ど》う返事するかも待たないで、美奈子を促しながら、一台の自動車に、ズンズン乗つてしまつた。
此の時の青年は、可なりみじめだつた。瑠璃子夫人の前では、手も足も出ない青年の容子が、美奈子にも、可なりみじめに、寧ろ気の毒に思はれた。
彼は屠所の羊のやうに、泣き出しさうな硬ばつた微笑を、強ひて作りながら、美奈子達の後から乗つた。
「そんなにクヨ/\なさるのなら、連れて行つて上げませんよ。」
夫人は、子供をでも叱るやうに、愛撫の微笑を目元に湛へながら云つた。
青年は、黙つてゐた。彼は、夫人の至上命令のため、止むなく自動車に乗つたものの、内心の不安と苦痛と嫌悪とは、その蒼白い顔にハツキリと現はれてゐた。臆病などと云ふことではなくして、兄の自動車での惨死が、善良な純な彼の心に、自動車に対する、殊に箱根の――唱歌にもある嶮しい山や、壑《たに》の間を縫ふ自動車に対する不安を、植ゑ付けてゐるのであつた。
美奈子は、心の中から青年が、気の毒だつた。
母が故意に、青年の心持に、逆らつてゐることが、可なり気の毒に思はれた。
自動車が、小田原の町を出はづれた時だつた。美奈子は何気ないやうに云つた。
「お母様。湯本から登山電車に乗つて御覧にならない。此間の新聞に、日本には始めての登山電車で瑞西《スヰツル》の登山鉄道に乗つてゐるやうな感じがするとか云つて、出てゐましたのよ。」
美奈子には、優しい母だつた。
「さうですね。でも、荷物なんかが邪魔ぢやない?」
「荷物は、このまま自動車で届けさへすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思ひますわ。」
「さうね。ぢや、乗り換へて見ませうか。青木さんは、無論御賛成でせうね。」
瑠璃子は、青年の顔を見て、皮肉に笑つた。青年は、黙つて苦笑した。が、チラリと美奈子の顔を見た眼には美奈子の少女らしい優しい好意に対する感謝の情が、歴々《あり/\》と動いてゐた。
二
富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つの裡で、美奈子達の避暑地生活は始まつた。
『暮したし木賀《きが》底倉《そこくら》に夏三月』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬《あこがれ》であつた。関所は廃れ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかつたけれども、温泉《いでゆ》は滾々《こん/\》として湧いて尽きなかつた。青葉に掩はれた谿壑《けいがく》から吹き起る涼風は、昔ながらに水の如き冷たさを帯びてゐた。
殊に、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右の翼の端《はづれ》にあつた。開け放たれた窓には、早川の対岸明神岳明星岳の翠微が、手に取るごとく迫つてゐた。東方、早川の谿谷が、群峰の間にたゞ一筋、開かれてゐる末《すゑ》遥《はるか》に、地平線に雲のゐぬ晴れた日の折節には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光つてゐる相模灘が見えた。
設備の整つたホテル生活に、女中達が不用なため、東京へ帰してからは、美奈子達三人の生活は、もつと密接になつた。
美奈子は、最初青年に対して、口も碌々利けなかつた。たゞ、折々母を介して簡単な二言三言を交へる丈《だけ》だつた。
母が青年と話してゐるときには、よく自分一人その場を外して、縁側《ヴェランダ》に出て、其処にある籐椅子に何時までも何時までも、坐つてゐることが、多かつた。
又何かの拍子で、青年とたゞ二人、部屋の中に取り残されると、美奈子はまた、ぢつとしてゐることが出来なかつた。青年の存在が、息苦しいほどに、身体全体に感ぜられた。
さうした折にも、美奈子は、やつぱりそつと部屋を外して、縁側《ヴェランダ》に出るのが常だつた。
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