て来るのを待つてゐるのだらう。其処に、ボンヤリ立つてゐた。
 彼は不思議さうに、美奈子をジロ/\と見たが、美奈子が此の家の家人であることに、やつと気が付いたと見え、少し周章《あわて》気味に会釈した。
 美奈子も周章て、頭を下げた。彼女の白いふつくりとした頬は、見る/\染めたやうに真赤になつた。その時に丁度、取次の少年が帰つて来た。青年は待ち兼ねたやうにその後に従《つ》いて入つた。
 美奈子が、玄関から上つて、奥の離れへ行かうとして客間の前を通つたとき、一頻り賑かな笑ひ声が、美奈子の耳を衝いて起つた。今までは、さうした笑ひ声が、美奈子の心を擦《かす》りもしなかつた。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はさうではなかつた。その笑ひ声が、妙に美奈子の神経を衝き刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑してゐる母に対して、羨望に似た心持が、彼女の心に起つて来るのを何《ど》うともすることも出来なかつた。

        八

 その日曜の残りを、美奈子はそは/\した少しも落着かない気持の裡に過さねばならなかつた。かの青年が、自分の家の一室にゐることが、彼女の心を掻き擾してしまつたのだ。
 今までは、一度も心に止めたことのない客間《サロン》の方が、絶えず心にかゝつた。青年が母に対してどんな話をしてゐるのか、母が青年にどんな答をしてゐるかと云つたやうなことを、想像することが、彼女を益々不安にさせ、いら/\させた。
 彼女は、到頭部屋の中に、ぢつと坐つてゐられないやうになつて、広い庭へ降りて行つた。気を紛らすために、庭の中を歩いて見たい為だつた。が、庭の中を彼方此方と歩いてゐる裡に、彼女の足は何時の間にか、だん/\洋館の方へ吸ひ付けられて行くのだつた。彼女の眸は、時々我にもあらず、客間《サロン》の縁側《ヴェランダ》の方へ走るのを、何うともすることが出来なかつた。その縁側《ヴェランダ》からは、時々思ひ出したやうに、華やかな笑ひ声が外へ洩れた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、到頭見えなかつた。
 大抵は、その日の訪問客を引き止めて、華美《はで》に晩餐を振舞ふ瑠璃子であつたが、その日は何うしたのか、夕方が近づくと皆客を帰してしまつて、美奈子とたつた二人|限《き》り、小さい食堂で、平日のやうに差し向ひに食卓に就いた。
 その夜の瑠璃子は、これまでの通り、美奈子に取つて母のやうな優しさと姉のやうな親しみとを持つてゐた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかつたやうな感情を持ち初めてゐた。母の若々しい神々しいほどの美貌が、何となく羨ましかつた。母が男性と、殊にあの青年と、自由に交際《つきあ》つてゐるのが、何となく羨ましいやうに、妬ましいやうに思はれて仕方がなかつた。が、美奈子はさうしたはしたない[#「はしたない」に傍点]感情を、グツと抑へ付けることが出来た。彼女は平素《いつも》の初々しい温和《おとな》しい美奈子だつた。
 順々に運ばれる皿数《コーセス》の最後に出た独活《アスパラガス》を、瑠璃子夫人がその白魚のやうな華奢な指先で、掴《つま》み上げたとき、彼女は思ひ出したやうに美奈子に云つた。
「あゝさう/\! 美奈さんに相談しようと思つてゐたの。貴女此夏は何処へ行きませうね。四五日の裡に、何処かへ行かうと思つてゐるの。今日なんかもう可なり暑いのですもの。」
「妾《わたし》、何処だつていゝわ。貴女《あなた》のお好きなところなら何処だつていゝわ。」美奈子は、慎ましくさう云つた。
「軽井沢は去年行つたし、妾《わたし》今年は箱根へ行かうかしらと思つてゐるの、今年は電車が強羅まで開通したさうだし、便利でいゝわ。」
「妾《わたし》箱根へはまだ行つたことがありませんの。」
「それだと尚いゝわ。妾《わたし》温泉では箱根が一番いゝと思ふの。東京には近いし景色はいゝし。ぢややつぱり箱根にしませうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合を訊き合せませうね。」
 さう云つて、瑠璃子は言葉を切つたが、直ぐ何か思ひ出したやうに、
「さう/\、まだ貴女《あなた》にお許しを願はなければならぬことがあるの。女手ばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、一人一緒に行つていたゞかうと思ふの。貴女、介意《かま》はなくつて?」
「介意ひませんとも。」美奈子はさう答へた。もし、昨日の美奈子であつたら、それをもつと自由に快活に答へることが出来たであらう。が、今の美奈子はさう答へると共に、胸が怪しく擾れるのを、何《ど》うともすることが出来なかつた。
「温和《おとな》しい学生の方なの。いろ/\な用事をして貰ふのにいゝわ。」
 瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱ひにでもしてゐるやうな口調で云つた。
 学生と聴くと、美奈子の胸は更に烈しく波立つた。押へ切れぬ希望と妙な不安とが、胸一杯に充ち満ちた。


 箱根行

        一

「御機嫌よく行つてらつしやいませ。」
 玄関に並んだ召使達が、口を揃へて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子達の乗つた自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。
 乾燥した暑い日が、四五日も続いた七月の十日の朝だつた。自動車の窓に吹き入つて来る風は、それでも稍《やゝ》涼しかつたが、空には午後からの暑気を思はせるやうな白い雲が、彼方此方にムク/\と湧き出してゐた。
 美奈子は、母と並んで腰をかけてゐた。前には、母の気に入りの小間使と自分の附添の女中とが、窮屈さうに腰をかけてゐた。
 美奈子は、母から箱根行のことを聴かされてから、母が一緒に伴つて行くと云ふ青年のことが、絶えず心にかゝつてゐた。が、母の方からはそれ以来、青年のことは何とも口に出さなかつた。母が口に出さない以上、美奈子の方から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかつた。
 出立の朝になつても、青年の姿は見えなかつた。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさへ思つた。さう思ふと美奈子は、失望したやうな、何となく物足りないやうな心持になつた。
 自動車が、日比谷公園の傍のお濠端を走つてゐる時だつた。美奈子は、やつと思ひ切つて母に訊いて見た。
「あの、学生の方とかをお連れするのぢやなかつたの?」
 瑠璃子は、初めて気が付いたやうに云つた。
「さう/\。あの方を美奈さんに紹介して置くのだつたわ。貴女《あなた》まだ御存じないのでせう。」
「はい! 存じませんわ。」
「学習院の方よ。時々制服を着ていらつしやることがあつてよ。気が付かない!」
「いゝえ! 一度もお目にかゝつたことありませんわ。」
「青木さんと云ふ方よ。」
 母は何気ないやうに云つた。
「青木さん!」美奈子は一寸|駭《おどろ》いたやうに云つた。「その方は此間、亡くなられたのではございませんの。」
 美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木|某《なにがし》が、横死したと云ふことは、薄々知つてゐた。
「いゝえ! あの方の弟さんよ。兄《おあにい》さんは、帝大の文科にいらしつたのよ。」
 茲《こゝ》まで聴いたとき美奈子にはもう凡てが、判つてゐた。此の旅行の同伴者が、何人《なんぴと》であるかがもうハツキリと判つた。新しく兄を失つた青木と云ふ青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう何の疑《うたがひ》も残つてゐなかつた。
 美奈子の心は、嵐の下の海のやうに乱れ立つた。かの青年と、少くとも向う一箇月間一緒に暮すと云ふことが、彼女の心を、取り乱させるのに十分だつた。それは嬉しいことだつた。が、それは同時に怖しいことだつた。それは、楽しいことだつた。が、それは同時に烈しい不安を伴《ともな》つた。
 美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子夫人は、この真白な腕首に喰ひ入つてゐる時計を、チラリと見ながら独言のやうに呟いた。
「もう、九時だから、青木さんは屹度《きつと》来ていらつしやるに違ひないわ。」
 さうだ! 青年は、停車場で待ち合はせる約束だつたのだ。もう、二三分の後にその人と面と向つて立たねばならぬかと思ふと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだつた。
 が、美奈子は少女らしい勇気を振ひ起して、自分の心持を纏めようとした。あの青年と会つても、取り乱すことのないやうに、出来る丈《だけ》自分の心持を纏めて置かうと思つた。美奈子の心持などに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦の大きい建物の前に下《おろ》してゐた。

        二

 美奈子等の自動車の着くのを、先刻《さつき》から待ち受けてゐたかのやうに、駅の群集の間から、五六人の青年紳士が、自動車から降り立つたばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであつた。
「お見送りに来たのですよ。」
 皆は、口を揃へて云つた。
 夫人は軽い快い駭《おどろ》きを、顔に表しながら云つた。
「おや! 何《ど》うして御存じ?」
「はゝゝ、お駭きになつたでせう。お隠しになつたつて駄目ですよ。我々の諜報局には、奥さんのなさることは、スツカリ判つてゐるのですからね。」
 外交官らしい、霜降りのモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にさう云つた。
「それは驚きましたね、小山さん! 貴君《あなた》間諜《スパイ》でも使つてゐるのぢやないの? おツほゝゝ。」
 夫人も華やかに笑つた。
「使つてをりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちやいけませんよ。」
「ぢや! 行先も判つて?」
「判つてゐますとも。箱根でせう。而も、お泊りになる宿屋まで、ちやんと判つてゐるのです。」
 今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイをした、画家らしい男が、さう附け加へた。
「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」
 夫人は、当惑したらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でさう答へた。
 若い男性に囲まれながら、彼等を軽く扱《あし》らつてゐる夫人の今日の姿は、又なく鮮かだつた。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピツタリ合つてゐた。極楽鳥の翼で飾つた帽子が、その漆のやうに匂ふ黒髪を掩うてゐた。大粒の真珠の頸飾りが、彼女自身の象徴《シンボル》のやうに、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下つてゐた。
 平素《いつも》見馴れてゐる美奈子にさへ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅の広間《ホール》に渦巻いてゐる群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に注がれて、彼等が切符を買つたり手荷物を預けたりする忙がしい手を緩めさせた。
 美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立つてゐた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のゐないのを知つた。一寸期待が外《はづ》れたやうな、安心したやうな気持になつてゐた。その内に、母を見送りの男性は、一人増え二人加つた。が、かの青年は何時まで待つても見えなかつた。その男性達は、美奈子の方には、殆ど注意を向けなかつた。たゞ美奈子の顔を、外《よそ》ながら知つてゐる二三人が軽く会釈した丈《だけ》だつた。
「奥さん! まだ判つてゐることがあるのですがね。」
 暫くしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おづ/\さう云つた。
「何です? 仰しやつて御覧なさい。」
 夫人は、微笑しながら、しかも言葉|丈《だけ》は、命令するやうに云つた。
「云つても介意《かま》ひませんか。」
「介意ひませんとも。」
 夫人は、ニコ/\と絶えず、微笑を絶たなかつた。
「ぢや申上げますがね。」彼は、夫人の顔色を窺ひながら云つた。「青木君を、お連れになると云ふぢやありませんか。」
 それに附け加へて、皆は口を揃へるやうに云つた。
「何です、奥さん。当つたでせう。」
 皆の顔には、六分の冗談と四分の嫉妬が混じつてゐた。
「奥さん、いけませんね。貴女は、皆に機会均等だと云ひながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」
 小山と云ふ外交官らしい男が、冗談半分に抗議を云つた。
 美奈子は、母が何と答へるか、ぢつと聞耳を立てゝゐた。

       
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