あの新しい墓の主が、兄妹に取つて親しい父か母かであつたならば、此次の日曜にも二人は屹度、お詣りをしてゐるのに違《ちがひ》ない。
 さう考へて来ると、美奈子には次の日曜が廻つて来るのが、一日千秋のやうに、もどかしく待たれた。
 が、待たれたその日曜が来て見ると、昨夜《ゆうべ》からの梅雨らしい雨が、じめ/\と降つてゐるのだつた。
「今日はお墓詣りに行かうと思つてゐたのですけれども。」
 美奈子は、朝母と顔を見合すと、運動会の日を雨に降られた少女か何かのやうに、滾《こぼ》すやうに言つた。瑠璃子には美奈子の失望が分らなかつた。
「だつて! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのぢやないの。」
「でも、今日も何だか行きたかつたの。妾《わたくし》楽しみにしてゐたのです。」
「さう! ぢや、自動車《くるま》で行つて来てはどう。自動車を降りてから、三十間も歩けばいゝのですもの。」
 瑠璃子は、優しく言つた。
「でも!」さう言つて、美奈子は口籠つた。
 雨を衝いてでも、風を衝いてでも、自分は行つてもいゝ。が、先方《むかう》は? さう思ふと、美奈子は寂しかつた。普通にお墓詣りをする人が、こんな雨降りの日に出かけて来る訳はない。さう思つて来ると、雨降りにでも行かうと云ふ自分の心、否お墓詣りと云ふことを、ダシに使はうとしてゐる自分の心が、美奈子は急に恥かしくなつた。彼女は、われにも非ず顔を赤くした。
「おや! 美奈さん。何がそんなに恥しいの。お墓詣りするのが、そんなに恥しいの?」
 明敏な瑠璃子は、美奈子の表情を見逃さなかつた。
「あら! さうではありませんわ。」
 と、美奈子は周章《あわ》てゝ、打ち消したが、彼女の素絹《しらぎぬ》のやうに白い頬は、耳の附根まで赤くなつてゐた。

        五

 その次の日曜は、珍らしい快晴だつた。洗ひ出したやうな紺青色《ウルトラマリン》の空に、眩しい夏の太陽が輝かしい光を、一杯に漲らしてゐた。
 美奈子は、朝眼が覚めると、寝床《ベッド》の白いシーツの上に、緑色の窓掩《カーテン》を透して、朝の朗かな光が、戯れてゐるのを見ると、急に幸福な感じで、胸が一杯になつた。今日は何だか、楽しい嬉しい出来事に出逢ひさうな気がした。彼女は、いそ/\として、床を離れた。
 午前中は、いろ/\な事が手に付かなかつた。母に勧められて、母のピアノにヴァイオリンを合せたけれども、美奈子は何時になく幾度も幾度も弾き違へた。
「美奈さんは、今日は何《ど》うかしてゐるぢやないの?」と、母から心の裡の動揺を、見透されると、美奈子の心は、愈々掻き擾《みだ》されて、到頭中途で合奏を止めてしまつた。
 午後になるのを待ち兼ねたやうに、美奈子はお墓詣りに行くための許しを、母に乞うた。何時もはあんなに気軽に、口に出せることが、今日は何だか、云ひにくかつた。
 墓地は、何時ものやうに静かだつた。時候がもうスツカリ夏になつた為か、此の前来たときのやうに、お墓詣りの人達は多くはなかつた。が、周囲は、静寂であるのにも拘はらず、墓地に一歩踏み入れると同時に、美奈子の心は、ときめいた。何だか、そは/\として、足が地に付かなかつた。恐いやうな怖ろしいやうな、それでゐて浮き立つやうな唆られるやうな心地がした。
 父母のお墓の前に、ぢつと蹲まつたけれども、心持はいつものやうに、しんみり[#「しんみり」に傍点]とはしなかつた。こんな心持で、お墓に向つてはならないと、心で咎めながらも、妙に心が落着かなかつた。
 彼女は、平素《いつも》とは違つて、何かに周章《あわて》たやうに、父母の墓前から立ち上つた。
「すみ[#「すみ」に傍点]や、今日も霞町の方へ出て見ない!」
 美奈子は、一寸顔を赤めながら何気ないやうに女中に云つた。女中は黙つて従《つ》いて来た。
 美奈子の心は、一歩毎にその動揺を増して行つた。彼女は墓石と墓石との間から、今にも麦藁帽の端か、妹の方のあざやか[#「あざやか」に傍点]な着物が、チラリとでも見えはせぬかと、幾度も透して見た。が、その辺《あたり》は妙に静まり返つて、人気さへしなかつた。
 彼女が、決心して足を早めて、心覚えの墓地に近づいて行つたとき、彼女の希望は、今朝からの興奮と幸福とは、煙のやうにムザ/\と、夏の大空に消えてしまつた。
 心覚えの墓地は、空しかつた。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残つてゐる丈《だけ》であつた。供へた花が、凋れてゐる丈《だけ》であつた。美奈子の心を、寂しい失望が一面に塞《とざ》してしまつた。
 せめて墓に彫り付けてある姓名から、兄妹の姓名を知りたいと思つた。が、生籬越に見た丈では、それが何うしても、確められなかつた。それかと云つて、女中を連れてゐる手前、それを確かめるために、墓地の廻りを歩いたりすることも出来なかつた。
 美奈子は、満されざる空虚を、心の裡に残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。
 彼女は、その途端ふと学校で習つた『株《くひぜ》を守つて兎を待つ』と、云ふ熟語を思ひ出した。約束もしない人が、何うして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだらう。さう思つて来ると、自分の子供らしさが、恥しいと同時に、寂しい頼りない気がした。或は、あれ切りもう一生逢はれない人かも知れない。
 彼女は、怏々として、暗いむすぼれた心持で電車に乗つた。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急に翳つて来たやうにさへ思はれた。
 が、美奈子の乗つた九段両国行の電車が、三宅坂に止まつたとき、運転手台の方から、乗つて来る人を見たとき、美奈子は思はずその美しい目を眸《みは》つた。

        六

 美奈子が、駭《おどろ》いて目を眸《みは》つたのも、無理ではなかつた。車内へツカ/\と、這入つて来て、彼女の直ぐ斜前へ腰を降ろしたのは、紛れもない、墓地で見た彼の青年であつた。美奈子が二週間もの間、外《よそ》ながらもう一度見たいと思つてゐたあの青年であつた。彼女は、一目見たばかりではあつたが、上品なその目鼻立を見ると、直ぐそれと気が付いた。
 その青年に、つい目と鼻の位置に坐られると、美奈子は顔を赧めて、ぢつと俯むいてしまふ女だつた。が、心の裡では思つた、何と云ふ不思議な偶然《チャンス》だらう。その人に逢へると思つた場所では、逢へないで、悄然と帰つて来る電車の中で、ヒヨツクリ乗り合はす。何と云ふ不思議な偶然《チャンス》だらう。さう思ふと同時に、不思議な偶然《チャンス》の向うには、思ひがけない幸福でもが、潜んでゐるやうに思はれて、先刻まで凋れかへつてゐた美奈子の心は、別人のやうに晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、ぢつと見詰める丈《だけ》の勇気はなかつた。車台の床に投げられてゐる彼女の視線には、青年が持つてゐる細身の籐のステッキの尖端《はし》だけしか映つてゐなかつた。
 あの方は、自分の顔を覚えてゐて呉れるかしら。美奈子はそんなことを、わく/\する胸で、取り止めもなく考へてゐた。兎に角、妹が挨拶をした以上、自分の顔|丈《だけ》位《ぐらゐ》は、覚えてゐて呉れるかしら。覚えてゐて呉れゝば、どんなに幸福であらうかなどと思つたりした。
 電車は、直ぐ半蔵門で止つた。もう、自分の家までは二分か三分かの間である。動き出せば直ぐ止る、わづかの距離であつた。美奈子は、もつと/\此の電車に乗つてゐたかつた。さうだ! 青年の乗つてゐる限り、此の電車に乗つてゐたいと思つた。
 彼女は、女中をそれとなく先へ降して、神田辺に買物があると云つて、此のまゝずつと乗り続けてゐようかと思つたりした。が、さうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だつた。
 その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れてゐた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢よく走つてゐた。美奈子は電車が、平素《いつも》の二倍もの速力で走つてゐるやうに思つた。彼女は、最後の一瞥を得ようとして、思ひ切つて顔を持ち上げた。青年は、此の前見たときと同じやうな白い飛白《かすり》の着物に絽セルらしい袴を穿いてゐた。近く見れば見るほど、貴公子らしい凜々しい面影が、美奈子の小さい胸を圧し付けるやうに、迫つて来るのだつた。美奈子は、此の青年と向ひ合つて坐りながら、もつともつと九段までも両国までも、いな/\もつと遥かに遥かに遠い処まで、一緒に乗つて行きたいやうな、切ない情熱が、胸に湧いて来るのを何うすることも出来なかつた。このまゝ別れてしまふと、また何時会はれるか分らない。二年も三年も、いな一生もう二度と会はれないのではあるまいかなどと思つたりすると、美奈子は、何うしても座席が離れられなかつた。が、女中のすみや[#「すみや」に傍点]は、そんなことは少しも頓着しなかつた。
 五番町の停留場の赤い柱が見え出すと、主人よりも先きに立ち上つた。
「参りましたよ。」
 彼女は主人を促すやうに云つた。美奈子がそれに促されて、不承々々に席を離れようとしたときだつた。降りさうな気勢《けはひ》などは、少しも見せなかつた青年が、突然立ち上ると男らしい活溌さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力[#「惰力」は底本では「隋力」]で動いてゐる電車から、軽くヒラリと飛び降りた。
「おや!」女中が、傍《そば》にゐなかつたら、彼女は駭いて声を出したかも知れなかつた。
「御近所の方かしら。」さう思つた美奈子は、電車を降りながら美しい眸を凝して、その後姿を見失ふまいと、眼も放たず見詰めてゐた。

        七

 美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後姿を、ぢつと彼女から見詰められてゐるとは少しも気が付かないやうに、籐の細身のステッキを、眩しい日の光の裡に、軽く打ち振りながら、グン/\急ぎ足で歩いた。
 美奈子は、一体此の青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿を眼で追つてゐた。
 その時に、彼女を駭かすやうな思ひがけないことが、起つた。
「おや! あの方、家へいらつしやるのぢやないかしら。」
 美奈子は、思はずさう口走らずにはゐられなかつた。
 九段の方へグン/\歩いて行くやうに見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だん/\その門に吸ひ付けられるやうに歩み寄るのであつた。
 青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立した。美奈子は、やつぱり通りがかりに、一寸邸内の容子を軽い好奇心から覗くのではないかと思つた。が、佇ずんで一寸何か考へたらしい青年は、思ひ切つたやうに、グン/\家の中へ入つて行つた。ステッキを元気に打ち振りながら。
「お客様ですわ、奥様の。」
 女中は、美奈子の前の言葉に答へるやうに言つた。
 いかにも、女中の言ふ通《とほり》、母の客間《サロン》を訪ふ青年の一人に違ひないことが美奈子にも、もう明かだつた。
「お前、あの方知つてゐるの?」
 美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすやうにしながら、何気なく訊いた。
「いゝえ! 存じませんわ。妾《わたくし》はお客間の方の御用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくや[#「きくや」に傍点]なら、きつと存じてをりますわ。」
 きくや[#「きくや」に傍点]と云ふのは、母に従《つ》いてゐる小間使の一人だつた。
 美奈子は、兎に角その青年が、自分の家に出入りしてゐると云ふことを知つたことが、可なり大きい欣びだつた。自分の家に出入りしてゐる以上、会ふ機会、知己《しりあひ》になる機会が、幾何《いくら》でも得られると思ふと、彼女の小さい胸は、歓喜のために烈しく波立つて行くのだつた。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合つてゐること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何《いくら》若い男性を、その周囲に惹き付けてゐようとも、それは美奈子に取つて、何の関係もないことだつた。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられてゐるのを知ると、美奈子は平気ではゐられなかつた。かすかではあるが、母に対する美奈子の純な濁らない心持が、揺ぎ初めた。
 美奈子が、心持足を早めて、玄関の方へ近づいて見ると、青年は取次が帰つ
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