彼女を追ふ男性が、蠅のやうに蒐まつて来る客間《サロン》には、決して美奈子を近づけなかつた。
 従つて、美奈子は母の客間に、どんな男性が蒐まつて来るのか、顔|丈《だけ》も知らなかつた。無論紹介されたことなどは、一度もなかつた。たゞ門の出入などに、さうした男性と、擦れ違ふことなどはあつたが、たゞ軽い黙礼の外は口一つ利かなかつた。
 母が日曜の午後を、華麗な客間《サロン》で、多くの男性に囲まれて、女王のやうに振舞つてゐるのを外《よそ》に、美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿花のお復習《さらひ》に静かな半日を送るのが常だつた。
 時々は、客間に於ける男性の華やかな笑ひ声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあつたが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかつた。さうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣な生活を非難するやうに、
「まあ! 大変お賑かでございますわね。奥様もお若くていらつしやいますから。」
 などと、美奈子の心を察するやうに、忠勤ぶつた蔭口を利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなく窘《たしな》めるのが常だつた。
 が、日曜の午後を、彼女はもつと有意義に過すこともあつた。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであつた。
 彼女は、女中を一人連れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。
 彼女は夢のやうな幼い時の思出などに耽りながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺《あたり》に低徊してゐることがあつた。
 六月の終りの日曜の午後だつた。その日は死んだ母の命日に当つてゐた。彼女は、女中を伴つて、何時ものやうにお墓参りをした。
 墓地には、初夏の日光が、やゝ暑くるしいと思はれるほど、輝かしく照つてゐた。墓地を劃《しき》つてゐる生籬《いけがき》の若葉が、スイ/\と勢ひよく延びてゐた。美奈子は裏の庭園で、切つて来た美しい白百合の花を、右手《めて》に持ちながら、懐しい人にでも会ふやうな心持で、墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓の方へ近づいて行つた。

        二

 晴れた日曜の午後の青山墓地は、其処の墓石の辺にも、彼処《かしこ》の生籬の裡にも、お墓詣りの人影が、チラホラ見えた。
 清々しく水が注がれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇つてゐるお墓なども多かつた。
 小さい子供を連れて、亡き夫のお墓に詣るらしい若い未亡人や、珠数を手にかけた大家の老夫人らしい人にも、行き違つた。
 荘田家の墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れてゐないところにあつた。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を世帯の苦労に苦しみ抜いて、碌々夫の栄華の日にも会はずに、死んで行つた糟糠の妻に対する、せめてもの心やりとして、此処に広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、直ぐ其処に埋められると云ふことは夢にも知らないで。
 亡き父の豪奢は、周囲を巡つてゐる鉄柵にも、四辺《あたり》の墓石を圧してゐるやうな、一丈に近い墓石にも偲ばれた。
 美奈子は、女中が水を汲みに行つてゐる間、父母の墓の前に、ぢつと蹲りながら、心の裡で父母の懐しい面影を描き出してゐた。世間からは、いろ/\に悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けてゐたやうな父ではあつたが、自分に対しては、世にかけ替のない優しい父であつたことを思ひ出すと、何時ものやうに、追慕の涙が、ホロ/\と止めどもなく、二つの頬を流れ落ちるのだつた。
 女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、浚乾《かへほ》してから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、剪り取つたまゝに、まだ香《かほり》の高い白百合の花を、挿入れた。かうしたことをしてゐると、何時の間にか、心が清浄《しやうじやう》に澄んで来て、父母の霊が、遠い/\天の一角から、自分のしてゐることを、微笑みながら、見てゐて呉れるやうな、頼もしいやうな懐しいやうな、清々しい気持になつてゐた。
 美奈子は、花を供へた後も、ぢつと蹲まつたまゝ、心の中で父母の冥福を祈つてゐた。微風が、そよ/\と、向うの杉垣の間から吹いて来た。
「ほんたうに、よく晴れた日ね。」
 美奈子は、やつと立ち上りながら、女中を見返つてさう云つた。
「左様でございます。ほんたうに、雲の片《かけ》一つだつてございませんわ。」
 さう云ひながら、女中は眩しさうに、晴れ渡つた夏の大空を仰いでゐた。
「そんなことないわ。ほら、彼処《あすこ》にかすつたやうな白い雲があるでせう。」
 美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持になつてさう云つた。が、美奈子の見附けたその白いかすかな雲の一片を除いた外は、空はほがらかに何処までも晴れ続いてゐた。
「今日は余りいゝお天気だから直ぐ帰るのは惜しいわ。ぶら/\散歩しながら、帰りませう。」
 さう云ひながら、美奈子は女中を促して、懐しい父母の墓を離れた。
 何時もは、歩き馴れた道を、青山三丁目の停留場に出るのであつたが、其日は清い墓地内を、当もなくぶら/\歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。
 自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく刈り込まれた生籬《いけがき》に囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹《きやうだい》らしい男女が、お詣りしてゐるのに気が付いた。
 美奈子は、軽い好奇心から、二人の容子を可なり注意して見た。兄の方は、二十三四だらう。銘仙らしい白い飛白《かすり》に、袴を穿いて麦藁の帽子を被つた、スラリとした姿が、何処となく上品な気品を持つてゐた。妹はと見ると、まだ十五か十六だらう、青味がかつた棒縞のお召にカシミヤの袴を穿いた姿が、質素な周囲と反映してあざやかに美しかつた。
 美奈子達が、段々近づいてその墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返つた妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら軽く会釈した。

        三

 妹らしい方から会釈されて、美奈子も周章《あわ》てながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思ひ出せなかつた。長い睫に掩はれたその黒い眸を、何処かで見たことのあるやうに思つた。が、それが何《ど》うしても美奈子には思ひ出せなかつた。
「人違ひぢやないのかしら。」
 さう思つて、美奈子は一寸顔を赤くした。
 が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、二度《ふたたび》その兄妹らしい男女を見返つたとき、今度は兄の方が、美奈子の方を振り返つてゐた。恐らく妹が、挨拶したので、一寸した興味を持つた為だらう。美奈子の眸は、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那美奈子は、若い男性と、咄嗟に顔を見合はした恥かしさに、弾かれたやうに、顔を元に返した。
 それはホンの一瞬の間だつた。が、その一瞬の間に一目見た青年の顔は、美奈子の心に、名工が鑿を振つたかのやうに、ハツキリと刻み付けられてしまつた。
 彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、殆どなかつた。が、今見た青年の顔は、彼女の注意の凡てを、支配するやうな不思議な魅力を持つてゐた。
 白いくつきりとした顔、妹によく似た黒い眸、凜々しく引きしまつた唇、顔全体を包んでゐる上品な匂《にほひ》。
 お墓参りの後の、澄み渡つたやうな美奈子の心持は、忽ち掻き擾《みだ》されてしまつた。彼女ののんびりとしてゐた歩調は、急に早くなつた。彼女の心は、強い力で後へ引かれながら、身体|丈《だ》けは、彼女の意志とは反対に、前へ/\と急いでゐた。丁度、恐ろしいものからでも逃れるやうに。
 彼女の擾れてゐた心が、だん/\和んで来るのに従つて、先刻妹の方から受けた挨拶のことを、考へてゐた。先方は、自分を知つてゐるに違《ちがひ》ない。少くとも、妹の方|丈《だけ》は、自分を知つてゐて呉れるに違ない。が、さうは思つて見るものの、妹が誰であるか何うしても思ひ出されなかつた。
 が、通り過ぎた時に、チラと見た所に依ると、二人が、つい近く失つたばかりの肉親のお墓詣りをしてゐたこと丈《だけ》は、明かだつた。幾本も立つてゐる卒都婆が、どれもこれも墨の匂が新しかつた。
 美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあつた家を、それからそれと数へて見た。が、何《ど》うしても兄妹の所属は判らなかつた。
 妹の方が、人違をしたのかも知れない。さう思ふことは美奈子は、何だか淋しかつた。やつぱり、此方《こちら》が思ひ出せないのだ。その中《なか》には、また屹度《きつと》あの人達と顔を合せる機会があるに違ひない。屹度機会が来るに違ひない。
「お嬢様! 何方《どつち》へ行《い》らつしやるのでございます?」
 さう云つて呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズン/\前へ、出口のない小径の方へと、進んでゐるところだつた。
「其方《そちら》へいらつしやいますと突き当りでございますよ。」
 さう言ひながら、女中は笑つた。
「おや! おや! 妾《わたし》ぼんやりしてゐたわ。」
 美奈子も、てれかくしに笑つた。
 二人は何時の間にか霞町の方へ近づいてゐた。
「霞町から乗つて、青山一丁目で乗換へすることにいたしませうか。」
 女中の発議に委したやうに、美奈子は黙つて霞町の方へ、だら/\した坂を降つてゐた。心の中では、まだ一心に、その妹の顔と兄の顔とを等分に考へながら。
 塩町行の電車の昇降台の棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、
「あゝさう/\!」と、自分自身に言つた。
 彼女は、やつと妹を思ひ出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にゐた人だ。さうさう! 先刻《さつき》見たときバンドをしてゐたのをスツカリ忘れてゐた。向うでは此方《こつち》の顔|丈《だけ》を覚えてゐて呉れたのだ。さう思ふと、美奈子は兄妹に対して一入《ひとしほ》なつかしい心が湧いて来た。

        四

 少女の顔|丈《だけ》は、やつと思ひ出したけれども、名前は何《ど》うしても思ひ出せなかつた。家へ帰つてからも、美奈子は、お茶の水にゐた頃の校友会雑誌の『校報』などを拡げて、それらしい名前を、思ひ出さうとしたけれども、やつぱり徒爾《むだ》だつた。
 自分ながら、何うしてあの兄妹に、不思議に心を惹かされるのか、美奈子には分らなかつた。が、兄の方の白い横顔や、妹の会釈した時の微笑などが何うしても忘れられなかつた。自分にも、あんなに親しい兄があつたら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であつたら、などと取り止めもないことを、考へながら、やつぱり忘れられないのは、一目顔を見合はせた丈《だけ》の兄妹だつた。否、本当に忘れられないのは、兄の方一人|丈《だけ》だつたかも知れない。たゞ兄を想ひ出すごとに、妹は影の形に伴ふごとく、彼女の記憶の裡に、甦つて来るのかも知れなかつた。異性の兄の方|丈《だけ》を考へることは、彼女の慎しい処女性が、彼女自身にそれを許さなかつた。彼女は、自身でも兄妹のことを考へてゐるやうに、言訳しながら、本当に兄|丈《だけ》のことを考へてゐたのかも知れなかつた。
 美奈子は、兄の方の美しい凜々しい姿を、心の裡で、ぢつと噛みしめるやうに、想ひ出してゐるとほの/″\と夜の明けるやうに、心の裡に新しい望《のぞみ》や、新しい世界が開けて行くやうに思つた。今まで夢にも知らなかつたやうな、美しい世界が開けて行くやうに思つた。
 が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハツキリと知れないことが、寂しかつた。あの時に、偶然逢つたばかりで、今後永く/\、否一生逢はずに終るのではないかと思つたりすると、淡い掴みどころのないやうな寂しさが、彼女の心を暗くしてしまふのだつた。
 彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知つたと云つてもよかつた。否彼女の心の少女らしい平和は、永久に破られたと云つてもよかつた。
 美奈子は、以前よりも温和《おとな》しい、以前よりも慎しい少女になつてゐた。
 その裡に、彼女の心にも、少女らしい計画《プラン》が考へられてゐた。さうだ! 此の次の日曜にも、お墓詣りをして見よう。もし、
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