若《も》し、男性を弄ぶ女性を、純真な男性の怒りが、粉微塵に砕くとしたなら、今の世間の大抵の男性は、純真な女性の怒りに依つて、粉微塵に砕かれる資格があるでせう、貴君《あなた》だつて、貴君《あなた》の純真な奥さんのお心の前に、少しも、恥かしいと思ふことはありませんか、貴君《あなた》が妾《わたくし》の良心にお訴へになつたやうに、妾《わたくし》も貴君《あなた》の良心に、それを伺ひたいと思ひますの。」
夫人の態度は、明《あきらか》に熱してゐた。赤く熱すると云ふよりも、白く冷たく而も極度に熱してゐた。
「女性が男性を弄ぶと貴君《あなた》方男性は、直ぐ妖婦だとか毒婦だとか、あらん限りの悪名を浴びせかける。貴君などは、眼の色を変へてまで、叱責なさらうとする。が、御覧なさい! 世間の男性がどんなに女性を弄んでゐるかを。女性が男性を弄ぶに致しましたところで、それは男性の浮動し易い心を、弄ぶのに過ぎないぢやありませんか。男性が女性を弄ぶ場合は、心も肉体も、名誉も節操も、蹂躙し尽すぢやありませんか。眼にこそ見えませんが、この世間には男性に弄ばれた女性の生きた惨《むご》たらしい死骸が、幾つ転がつてゐるかも分りません。貴君《あなた》の眼の前にゐる女性なども、案外にもさうした生きた死骸の一つだか分りませんよ。」
夫人の美しい眸は爛々と輝いた。その美しい声は、烈しい熱のために、顫へてゐた。
「男性は女性を弄んでよいもの、女性は男性を弄んでは悪いもの、そんな間違つた男性本位の道徳に、妾《わたくし》は一身を賭しても、反抗したいと思つてゐますの。今の世の中では、国家までが、国家の法律までが、社会のいろ/\な組織までが、さうした間違つた考へ方を、助けてゐるのでございますもの。御覧なさい! 世の中には、お女郎屋だとか待合だとかお茶屋だとか、男性が女性を公然と弄ぶ機関が存在してゐるのですもの。さう云ふものを国家が許し、法律が認めてゐるのですもの。また、さう云ふものが存在してゐる世の中に、住みながら、教育家とか思想家などと云ふ人達が、晏然として手を拱《こまぬ》いてゐるのですもの。女性ばかりに、貞淑であれ! 節操を守れ! 男性を弄ぶな! そんなことを、幾何《いくら》口を酸くして説いても、妾《わたくし》はそれを男性の得手勝手だと思ひますの。男性の我儘だと思ひます。丁度此の青木さんのノートが、男性の我儘を示してゐるやうに。」
虐げられたる女性全体の、反抗の化身であるやうに、夫人の態度は、跳ね返る竹の如き鋭さを持つてゐた。
五
夫人は、心の中に抑へに抑へてゐた女性としての平生の鬱憤を、一時に晴してしまふやうに、烈しく迸る火花のやうに喋べり続けた。
「人が虎を殺すと狩猟と云ひ、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎が偶々人を殺すと、兇暴とか残酷とかあらゆる悪名を負はせるのは、人間の得手勝手です。我儘です。丁度それと同じやうに、男性が女性を弄ぶことを、当然な普通なことにしながら、社会的にも妾《めかけ》だとか、芸妓《げいしや》だとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対に偶々一人か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負はせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。妾《わたくし》は、さうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやらうと思つてゐますの。」
彼女は、一寸言葉を途切らせてから、
「青木さんとの事だつて、さうでございますわ。貴君《あなた》などは、凡ての責任を妾《わたくし》に負はせようと遊ばす。妾《わたくし》が、清浄無垢な青木さんを迷はしたやうなことをお云ひになる。が、あの時計だつて、妾《わたくし》が青木さんに、どうかお受け取りになつて下さいと云つて、差し出したものぢやあございませんわ。青木さんが、幾度も呉れ/\と仰しやつたから差し上げたのよ。自分がおねだりなすつたことなどは、ちつとも書いておありにならないのですもの。だから、自惚《うぬぼ》れが強くつて我儘だと申したのですわ。またあの方が、幾何《いくら》自殺をすると書いておありになつても、それはあの方の詠嘆に過ぎませんわ。もし、自動車が転覆しなかつたら、あの方は今日あたりは、妾《わたくし》の客間《サロン》へお見えになつたかも知れませんよ。また縦令《たとひ》自殺の決心が、本当でおありになつたとしても、それを妾《わたくし》一人の責任のやうに、御解釈なさることは、御免蒙りたいと思ひますわ。だつて、あの方の性格の弱さに対してまで、妾《わたくし》は責任を持ちたくありませんもの。妾《わたくし》との戯恋《フラアテイション》の一寸した幻滅で、自殺をなさるやうな方は、男子としての生存的意志を、持つてゐないと申上げてもいゝのですもの。妾《わたくし》とのいきさつで、自殺なさらなくつても、又なにか別なことで、直ぐ自殺してしまふ方ですもの。」
信一郎は、夫人の言葉を聴いてゐる中に、それを夫人の捨鉢な不貞腐《ふてくされ》の言葉ばかりだとは、聞きながされなかつた。彼は、その美しい夫人の裡に、如何なる男性にも劣らないやうな、鋭い理智と批判とを持つた一個の新しい女性、如何なる男性とも、精神的に戦ひ得るやうな新しい強い女性を認めたのである。
彼の夫人に対する憎悪は、三度四度目に、又ある尊敬に変つてゐた。旧道徳の殻を踏み躙つてゐる夫人を、古い道徳の立場から、非難してゐた自分が、可なり馬鹿らしいことに気が付いた。
夫人の男性に対する態度は、彼女の淫蕩な動機からでもなく、彼女の妖婦的な性格からでもなく、もつと根本的な主義から思想から、萌してゐるのだと思つた。
「妾《わたくし》、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云ふことを、男性に思ひ知らしてやりたいと思ひますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思ひますの。妾《わたくし》一身を賭して男性の暴虐と我儘とを懲《こら》してやりたいと思ひますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いてゐる女性の生きた死骸のために復讐をしてやりたいと思ひますの。本当に妾《わたくし》だつて、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」
さう云ひながら、夫人は一寸頭をうなだれた。緊張し切つてゐた夫人の顔に、悲しみの色が、サツと流れた。
六
物凄いと云つてよいか、死身と云つてよいか、兎に角、烈々たる夫人の態度は、信一郎の心を可なり振盪した。
これほどまで、深い根拠から根ざしてゐる夫人の生活を、慣習的な道徳の立場から、非難しようとした自分の愚かさを、信一郎はしみじみと悟ることが出来た。夫人をして彼女の道を行かしめる外はない。縦令《たとひ》、その道が彼女を、どんな深淵に導かうとも、それは彼女に取つて覚悟の前の事に違ひない。多くの男性を飜弄した報いのために、縦令彼女自身を亡ぼすとも、それは、彼女としては、主義に殉ずることであり、男性に対する女性の反抗の犠牲となることなのだ。
「いや! 奥さん、僕は貴女のお心が、始めて解つたやうに思ひます。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女に忠告がましいことを言つたのを、お詫《わび》します。貴女が、一身を賭して、貴女の思ひ通り、生活なさることを、他からかれこれ云ふことの愚さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇する前に、たつた一つ丈お願ひがあるのです。聴いて下さるでせうか。」
「どんなお願ひでございませうか。妾《わたくし》にも出来ることでございましたら。」
信一郎が夫人の本心を知つてから、可なり妥協的な心持になつてゐるのにも拘はらず、夫人の態度の険しさは、少しも緩んでゐなかつた。
「外でもありません。先刻も申しました通り、青木君の弟|丈《だけ》を、貴女の目指す男性から除外していたゞきたいと思ふのです。青木君の死をまざ/\と知つてゐる丈《だけ》、あの方の弟までが、貴女の客間《サロン》に出入することは、僕の心を暗くするのです。青木君の死の責任が孰《どち》らにありませうとも、青木君が貴女《あなた》を恨んで死んだ以上、青木君の弟に対して丈《だけ》は、慎んでいたゞきたいと思ふのです。」
「貴君《あなた》は、御忠告をなさらないと云ふ口の下から、またさう云ふことを仰しやつていらつしやるのですね。」さう云ひながら、遉《さすが》に夫人は一寸苦笑ともなく微笑ともなく笑つた。「自分の生活|丈《だけ》を自分の思ひ通《どほり》にしようとするものは、利己主義ではない、他人の生活をまで、自分の思ひ通《どほり》にしようとするものこそ、本当の利己主義だと、ある人が申しましたが、貴君などこそ、本当の利己主義でいらつしやいますわね。青木さんの弟が妾《わたくし》を慕つていらつしやるとする。さう仮定したとしても、それがあの方としては、一番本当の生活ぢやございませんでせうかしら。それが、あの方として一番本当の生き方ぢやございませんかしら。さう云ふ他人の真剣な生活を、貴君が傍《はた》から心配なさることは少しもないと思ひますわ。妾《わたくし》のために、あの方が、一身を犠牲にするやうな事があつたとしても、あの方としては一番本当の生き方をしたと云ふ事になりは致しませんでせうか。」
夫人の考へ方は、凡ての妥協と慣習とを踏み躙つてゐた。
「果してそんなものでせうか。僕は断じてさうは思ひません。」
信一郎は可なり激しく、抗議せずにはゐられなかつた。
「それは、銘々の考へ方の違《ちがひ》ですわ。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の考へ方に依つて生きる自由を持つてゐます。」
夫人は、この長い激論を打ち切るやうに云つた。
「さうです。それはさうかも知れません。が、貴女《あなた》が貴女の考へに依つて生きる自由があるやうに、僕も僕の考へを実行する自由を主張するのです。奥さん! 青木君の弟を、あなたの脅威から救ふことに、僕は相当の力を尽すつもりです。それは死んだ青木君に対する僕の神聖な義務だと思ふのです。」
「どうか、御随意に。」夫人は、冷然と云つた。
「青木さんの弟に取つては、本当に有難迷惑だとは思ひますが、然し止むを得ませんわ。貴君が躍起になつた御忠告が、あの方の妾《わたくし》に対するお心を、どの位醒させるか、ゆつくり拝見したいと思ひますわ。」
夫人は、最後の止めを刺すやうに、高飛車に冷然と笑ひながら、云ひ放つた。
初恋
一
瑠璃子夫人は、あの太陽に向つて、豪然と咲き誇つてゐる向日葵《ひまはり》に譬へたならば、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々として慎やかに花を付けるあの可憐な雛罌粟《ひなげし》の花のやうな女性が、夫人の手近にゐることを、人々は忘れはしまい。それは云ふまでもなく、彼の美奈子である。
父の勝平が死んだとき十七であつた美奈子は、今年十九になつてゐた。その丸顔の色白の面《おもて》は、処女そのものの象徴のやうな、浄さと無邪気《あどけなさ》とを以て輝いてゐた。
男性に対しては、何の真情をも残してゐないやうな瑠璃子夫人ではあつたが、彼女は美奈子に対しては母のやうな慈愛と姉のやうな親しさとを持つてゐた。
美奈子も亦、彼女の若き母を慕つてゐた。殊に、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉ぢ込められた為に、彼女の親しい肉親の人々を凡て彼女の周囲から、奪はれてしまつた寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向つてゐた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。
二人は、過去の苦い記憶を悉く忘れて、本当の姉妹のやうに愛し合つた。瑠璃子が、勝平の死んだ後も、荘田家に止まつてゐるのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると云つてもよかつた。この可憐な少女と、その少女の当然受け継ぐべき財産とを、守つてやらうと云ふ心も、無意識の裡に働いてゐたと云つてもよかつた。
従つて瑠璃子は、美奈子を処女らしく、女らしく慎しやかに育てゝ行くために、可なり心を砕いてゐた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかつた
前へ
次へ
全63ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング