、弄ばれる男に取つては、それが死であると。奥さん! 貴女《あなた》は、かう云ふ話を御存じですか。池の中に多くの蛙が浮んでゐると、子供達が来て石を投げ付ける、その時に蛙が何て云つたか御存じですか。蛙はかう云つたのです。貴君《あなた》方に取つて遊戯であることが、我々に取つては死である、と。青木君の死際の云分も、つまりそれなのです。貴女《あなた》は、青木君の死を単なる奇禍だと思つてはいけません。形は奇禍ですが、心持に於いては立派な自殺です。たゞ自動車の偶然の衝突があの人の死を、二三日早めたのに過ぎないのです。貴女は青木君の死を奇禍だと考へることに依つて、貴女の良心を欺いてはなりません。正《まさ》しく自殺です。而も池の中の蛙が、子供が戯れに投げた石に当つて死んだやうに、貴女が戯れに与へた白金《プラチナ》の時計に依つて死んだのです。蛙が若《も》し人間としての働きがあつたならば、その石を子供に投げ返すやうに、僕は青木君に代つて、此の時計を貴女に投げ返すのです。さうです、貴女の良心に向つて投げ返すのです。貴女の心に僅かにでも、良心が残つてゐるのなら、貴女はそれで此の時計を受け止めて下さい。さうしてその受け止めた痛みに依つて、貴女の心を浄めていたゞきたいと思ふのです。さうして、男性に対する貴女の危険な戯れを、今日限り廃《よ》していたゞきたいと思ふのです。それが青木君の死に対する貴女のせめてもの償ひです。僕が、先刻貴女のお戯れの相手をするのは危険だと云つたのはかう云ふ意味です。青木君の場合はまだ独身ですから、貴女の戯れの犠牲になるものは一人で済むのですが、僕のやうな既婚者の場合は被害者が複数ですからね。」
信一郎の興奮は、彼を可なりな雄弁家にしてしまつた。夫人はと見ると、遉《さすが》に彼の言葉が一々肺腑を衝いてゐると見えて、うなだれ気味に、黙々と聴いてゐた。信一郎は、自分の心が、少しでも夫人の心を悔い改めしめてゐるかと思ふと、内心ある感激を感ぜずにはゐられなかつた。さうだ! 此の美しき女性をたゞ恥かしめる丈《だけ》が、能ではない。自分の言葉に依つて、夫人の心を、少しでも浄くし改めてやりたいと思つた。
「いや! 奥さん。僕は何も貴女《あなた》に恩怨があるのではありません。恩怨がないばかりでなく、ある点では貴女を敬慕してゐるものです。貴女のその秀れた美しさと、貴女の教養や趣味に対して、心から敬慕してゐるものです。が、僕は貴女がさうした天分や教養を邪道に使つてゐるのを見ると、本当に心が暗くなるのです。僕は青木君の為にばかりでなく、貴女自身のために、僕の云つたことをよく玩味していたゞきたいと思ふのです。」
かう信一郎が、述べ来つた時、今まで傾聴してゐるやうな態度をしてゐた夫人は、つと頭を上げた。
「あの、お言葉中で恐れ入りますが、御忠告なら、御免を蒙りたいと思ひます。御用事|丈《だけ》を承はる筈であつたのでございますから。」
鋼鉄のやうな凜とした冷たさが、その澄んだ声の内に響いてゐた。
二
『御忠告ならば、御免を蒙る。』と、夫人がきつぱりと云ひ放つのを聴くと、信一郎は夫人に対して、最後の望みを絶つた。青木淳は、『僅に残つてゐる良心』と、書いてゐる。が、僅に残つてゐる良心どころか良心らしいものは、片《かけら》さへ残つてゐない。女らしい、つゝましい心の代りに、そこに翼を拡げてゐるものは、恐ろしい吸血鬼《ヴァンパイヤ》である。純真な男性の血を好んで嗜なむ怪物である。夫人の良心に訴へて、少しでも彼女を、いゝ方に改めさせてやらうと思つたのは、悪魔に基督《キリスト》の教を説くやうなものであると思つた。
信一郎は外面如菩薩と云ふ古い言葉を、今更らしく感心しながら、暫らくは夫人の顔を、ぢつと見詰めてゐたが、
「いや、これは飛んだ失礼をしました。青木君の遺言|丈《だけ》を伝へれば、僕の責任は尽きてゐたのでした。」
彼は、さう云つて潔く此部屋から出ようとした。が、その時に、彼は青木淳の弟の姿を思ひ浮べた。さうだ! あの青年を、夫人の危険から救つてやることは、自分の責任だと思つた。
「だが、奥さん! 僕は僕の責任として、貴女にもう一言云はなければならぬことがあるのです。これは貴女に対するおせつかいな忠告ぢやないのです。青木君に対する僕の責任の一部として、申し上げるのです。畢竟は青木君の遺言の延長として申上げるのです。それは、外でもありません。貴女が如何なる男性の感情を、どんなに弄ばうが、それは貴女の御勝手です。いや御勝手と云ふことにして置きませう。だが、青木君の弟の感情を、弄ぶこと丈《だけ》は、僕が青木君に代つて、断然お断りして置きます。まさか、貴女も少しでも、人情がお有りでしたら、兄を深淵へ突き陥した後で、その肉親の弟をも、同じ処へ突き陥すやうな残酷なことはなさるまいとは思ひますけれども、念のためにお願して置くのです。いやどうもお邪魔しました。」
夫人の顔が、遉《さすが》に蒼白に転ずるのを尻目にかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした[#「出ようとした」は底本では「出ようした」]。が、それを見ると、夫人は屹となつて呼び止めた。
「渥美さん! お待ちなさい!」
その凜とした声には、女王のやうな威厳が備はつてゐた。
「貴君《あなた》は、自分の仰しやることさへ仰しやつてしまへば、それでお帰りになつてもいゝとお考へになるのですか。貴君が、妾《わたくし》に御用事がある中は、貴君《あなた》に帰る権利が、妾《わたくし》になかつたやうに、妾《わたくし》が貴君に申上げることが残つてゐる以上|貴君《あなた》はお帰りになる権利はありません。妾《わたくし》は一言|丈《だけ》貴君《あなた》に申上げることが残つてゐます。」
美しい眉は吊り上り、黒い眸は、血走つてゐた。信一郎を、屹と見詰めて立つてゐる姿は、『怒れる天女』と云つたやうな、美しさと神々しさとがあつた。
「貴君《あなた》は、今青木さんの遺言とやらを、長々しく仰しやいましたが、それを妾《わたくし》が受けると思つていらつしやるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんな御遺言なんか、一言半句だつて、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承はるやうな覚えは、さら/\ありません。今承はつたお言葉全部を、そのまゝ御返上します。」
夫人の声にも、憎みと怒りとが、燃えてゐた。が、信一郎はたぢろがなかつた。
「死人に口がないと思つて、そんなことを仰しやつては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と云ふ海軍大尉があつた筈です。まさか、ないとは仰しやいますまいね。」
「よく御存じですね。」
夫人は、平然として答へた。
「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴女に、もし少しでも良心が残つていらつしやるのなら、今貴君にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試して御覧なさい!」
さう云ひながら、信一郎はポケットに曲げて入れてゐたノートを夫人の眼前に突き付けた。
三
信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受取つた。ノートの重さにも堪へないやうな華奢な手で、それを無造作に受け取つた。
鋼鉄の如き心と云ふのは、恐らく今の場合の夫人の心を云ふのだらう。鬼が出るか蛇が出るか分らないそのノートを、受け取りながら、一糸|紊《みだ》れたところも、怯《ひる》んだところも見せなかつた。
「おや、青木さんのノートでございますのね。」
夫人は、平然と云ひながら、最初の頁《ページ》から繰り初めた。繰つてゐるその白い手は、落着きかへつてゐる。
が、信一郎は思つた。今に見ろ、どんなに白々しい夫人でも、血で書いた青木淳の忿恨の文字に接すると、屹度良心の苛責に打たれて、女らしい悲鳴を挙げる。彼女の孔雀の如き虚飾の驕りを擾されて、女らしく悔恨に打たれるに違ひない。さう思ひながら、頁《ページ》を繰る夫人の手許と、やゝ蒼んでゐる美しい面から、一瞬も眼を放たず、ぢつと見詰めてゐた。
その裡に、夫人はハタと、青木淳が書き遺した文字を見付けたらしい。遉《さすが》に美しい眸は、卓の上に開かれたノートの頁《ページ》の上に、釘付にされたやうに、止つてしまつた。
美しい面が、最初薄赤く興奮して行つた。が、それがだん/\蒼白になり、唇の辺りが軽く痙攣するやうに動いてゐた。
夫人が、深い感動を受けたことは、明かだつた。信一郎は、今にも夫人が、ノートの上に瓦破《ぐわば》と泣き伏すことを予期してゐた。泣き伏しながら、非業に死んだ青年の許しを乞ふことを想像した。彼女の美しい目から、真珠のやうな涙が、ハラ/\と迸しることを待つてゐた。悔恨と懺悔との美しい涙が。
が、信一郎の予期は途方もなく裏切られてしまつた。一時動揺したらしい夫人の表情は、直ぐ恢復した。涙などは、一滴だつて彼女の長い睫をさへ湿《うるほ》さなかつた。
彼女は、一言も云はずに、ノートを信一郎の方へ押しやつた。
信一郎は、夫人の必死的《デスペレート》な態度に圧せられて、此の上何か云ふ勇気をさへ挫かれた。
二人は、二三分の間、黙々として相対してゐた。信一郎は、その険しい重くるしい沈黙に堪へかねた。
「如何です。此のノートを読んで、貴女は何ともお考へにならないのですか。」
信一郎の声の方が、却つてあやしい顫へをさへ帯びてゐた。
夫人は、黙して答へなかつた。
信一郎は、畳みかけて訊いた。
「貴女は、青木君が血を以て書いた、此のノートを読んで、何ともお考へにならないのですか。青木君の云ひ草ぢやないが、貴女の少しでも残つてゐる良心は、此のノートを読んで、顫ひ戦かないのですか。貴女の戯れの作つた恐ろしい結果に戦慄しないのですか。」
信一郎は、可なり興奮して突きかゝつた。
が、夫人は冷然として、氷の如く冷かに黙つてゐた。
「奥さん! 黙つていらしつては分りません。貴女は! 貴女は此ノートを読んで何ともお考へにならないのですか。」
信一郎は、いらだつて叫んだ。
「考へないことはありませんわ。」
彼女の沈黙が冷かな如く言葉そのものも冷かであつた。
「お考へになるのなら、そのお考へを承はらうぢやありませんか。」
信一郎は益々いらだつた。
「でも、死んだ方に悪いのですもの。」
「死んだ方に悪い! 貴女はまだ死者を蔑まうとなさるのですか。死者を誣《し》ひようとなさるのですか。」
信一郎は火の如く激昂した。
その激昂に、水を浴びせるやうに夫人は云つた。
「でも、妾《わたくし》、此ノートを読んで考へましたことは、青木さんも普通の男性と同じやうに、自惚れが強くて我儘であると云ふこと丈《だけ》ですもの。」
四
夫人の言葉は、信一郎を唖然たらしめた。彼は呆気に取られて、夫人の美しい冷かな顔を見詰めてゐた。どんな妖婦でも、昔の毒婦伝に出て来るやうな恐ろしい女でも、自分を恨んで死んだ男の遺書《かきおき》を、かうまで冷酷に評し去る勇気はないだらう。自分を恨んでゐる、血に滲んだ言葉を自惚れと我儘だと云つて評し去る女はないだらう。
が、一時の驚きが去ると共に、信一郎の心に残つたものは、夫人に対する激しい憎悪だつた。女ではない。人間ではない。女らしさと、人間らしさとを失つた美しい怪物である。その人を少しでも人間らしく考へた自分が、間違つてゐたのだ。彼は心の中で憎悪を吐き捨てるやうに云つた。
「いやもう、なにも言ひたくありません。貴女は、貴女のお考へで、男性を弄ぶことをおつゞけなさい! その中に、純真な男性の怒《いかり》が、貴女を粉微塵に砕く日が来るでせう。」
信一郎は、床を踏み鳴らさんばかりに、激昂しながら、叫んだ。
が、信一郎が激すれば、激するほど、夫人は冷静になつて行つた。彼女は、冷たい冷笑をさへ頬の辺りに、浮べながら、落着き返つて云つた。
「男性を弄ぶ! 貴君《あなた》は、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のやうに考へていらつしやるのですか。だから、妾《わたくし》が男性の我儘だと云ふのですわ。
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