一郎の攻撃に対する夫人の反撃は、烈しかつた。信一郎は夫人の真向からの侮辱に、目が眩んだ。彼は屈辱と忿怒とのために、胸がくらくらするやうに煮えた。信一郎が口籠りながら何か云はうとしたときに、呼鈴に応じて先刻の小間使が顔を出した。夫人は冷静な口調で、ハツキリと云つた。
「お客様がお帰りになるさうだから、自動車の支度をするやうに。」

        六

 西洋では、厭な来客を追ひ帰すとき、又来客と喧嘩したとき、『扉《ドア》を指さし示す』ことが、習慣である。直ぐ出て行つて呉れと云ふ意味である。客に対する絶大の侮辱であり、挑戦である。
 が、来客の前で、勝手に帰り支度を、整へてやることも、『扉《ドア》を指さし示す』ことと同じ程度の侮辱に違ひない。
 夫人は、自分の好意を、相手が跳ね返したと知ると、それを十倍もの烈しさで、跳ね返し得る女であつた。
 信一郎は、平手で真向から顔を、ピシヤリと、叩かれたやうな侮辱を感じた。もし、相手が女性でなかつたら、立ち上りざま殴り付けてでもやりたいやうな激怒を感じた。それと同時に、突き放されたやうな淋しさが、激怒の陰に潜んでゐることをも、感ぜずにはゐられなかつた。
 信一郎の顔が、激怒のために、真赤に興奮してゐるのにも拘はらず、夫人はその白い面が、心持|蒼《あを》んでゐる丈で、冷然として彫像か何かのやうに動かなかつた。
 信一郎も、相手から受けた、余りに思ひがけない侮辱の為に、暫らくは、口さへ利けなかつた。
 夫人も、黙々として一語も洩らさなかつた。その中に、バタ/\と廊下に軽い足音がしたかと思ふと、先刻の女中が、顔を出した。
「あの、お支度が出来ましてございます。」
「さう」と、夫人は軽く会釈して、女中を去らせると、静かに信一郎の方を振向きながら、彼女の最後の通牒を送つた。
「それでは、どうかお帰り下さいませ。妾《わたくし》がお呼び立ていたした罪は、幾重にもお詫いたしますわ。でも、お互に理解しない者同士が、何時まで向ひ会つてゐても、全く無意味だとも思ひますわ。何うか安穏な御家庭で何時までも平和にお暮し遊ばせ!」
 夫人は、一寸皮肉な微笑を浮べると、静《しづか》に立つて信一郎に、扉《ドア》の方を指さし示した。
 信一郎の心は、激しい恥辱のために、裂けんばかりに、張り詰めてゐた。このまゝ、帰つてしまへば、徹頭徹尾全敗である。どんなに、相手が美しい夫人であるとは云へ、男性たるものが、かうも手軽に、人形か何かのやうに飜弄せられることは、何うにも堪らないことだと思つた。今こそ全力を尽して彼女と、戦ふべき日であると思つた。激怒のために、波立つ胸を、彼はぢつと抑へ付けながら云つた。
「奥さん! 折角ですが、僕にはまだ帰られない用事があります。」
 信一郎の言葉は、可なり顫へを帯びてゐた。
「おや! 御用事。それぢや直ぐ承はらうぢやありませんか。妾《わたくし》、またこんな部屋には、一刻もお止まりになるお心はなくなつたのだらうと思つてゐました。」
 夫人は、凄いほどに、落着いてゐた。
 信一郎は、蒼白《まつさを》になりながら、懸命に冷静な態度を失ふまいとした。
「奥さん! 帰るときが来れば、お指図を待たなくつても帰ります。が、只今伺つたのは、貴女のお手紙の為ばかりぢやないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴つて帰つた以上、貴女のお召状|丈《だけ》で、ノメ/\とやつては来ません。」
「おや! それでは、妾《わたくし》はその点でも飛んだ思違ひをしてゐましたのね。」
 夫人は、針のやうな皮肉を含みながら、冷やかに笑つた。信一郎はいらだつた。
「貴女に申し上ぐべきこと、当然お願ひすべき用事があればこそ参つたのです。それが済むまでは、貴女が幾ら帰れと仰しやつたつて、帰れません。貴女も一度僕と会つた以上、自分の用事丈が、済んだと云つて、さう手軽に僕を追ひ返す権利はありません。」
「大変御尤もな仰せです。それではその用事とかを承はらうぢやありませんか。」
 夫人の皮肉な態度は突き刺すやうなトゲ/\しさを帯び初めた。

        七

 夫人の皮肉なトゲに、突き刺されながらも、信一郎は、やつと自分自身を支へることが出来た。
「用事と云つて、外ではありませんが、いつか貴女にお預けして置いたあの白金《プラチナ》の時計を、返していたゞきたいと思ふのです。死んだ青木君から遺託を受けたあの時計をです。」
 信一郎は、一生懸命だつた。彼は、身体が激昂のために、わなゝかうとするのをやつと、抑へながら喋べつた。が、その声は変に咽喉にからんでしまつた。
 夫人の冷たさは、愈々《いよ/\》加はつた。その美しい面は、象牙で彫んだ仮面か何かのやうに、冷たく光つてゐた。『何を!』と、云つたやうな利かぬ気の表情が、その小さい真赤な唇のあたりに動いてゐた。
「あら、あれは妾《わたくし》にお預けして下さつたのぢやないのですか。一旦お預けして下さつた以上、男らしくもないぢやありませんか。また返せなどと仰しやるのは。」
 信一郎を揶揄《からか》つてゐるやうに、冷かしてゐるやうに、夫人の語気は、ます/\辛辣になつて行つた。
「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分らなかつたからです。また、何《ど》う云ふ心持で返すのかが、分らなかつたからです。今こそ、返すべき女性がハツキリと分つたのです。また、何う云ふ態度で、あの時計を返すべきかも、ハツキリと分つたのです。僕は、あの時計を貴女から返していたゞいて、その本当の持主に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を青木君に対して、感じてゐるのです。どうか直ぐお返しを願ひたいと思ひます。」
 夫人の顔は、遉《さすが》に少しく動揺した。が、信一郎が予想してゐたやうに、狼狽の容子は露ほども見せなかつた。
「そんなに、面倒臭い時計なのですか、それぢや、お預りするのではなかつたわ。それぢや只今直ぐお返しいたしますわ。」
 夫人は、手軽に、借りてゐたマッチをでも返すやうに、手近の呼鈴《ベル》を押した。
 二人は、黙々として、暫らく相対してゐる裡に、以前の小間使が、扉《ドア》を静《しづか》に開けた。
「あのね。応接室の、確か炉棚《マンテルピース》の上の手文庫の中だつたと思ふのだがね。壊れた時計がある筈だから持つて来て下さいね。若し手文庫の中になかつたら、あの辺を探して御覧! 確かあの近所に放り散かして置いた筈だから。」
 信一郎が、あれほどまでに、心を労してゐた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのやうに、放りぱなしにしてゐたのだつた。青木淳が臨終にあれほどの恨《うらみ》を籠めた筈の時計は、夫人に依つて、意味のない一箇の壊れ時計として、炉棚《マンテルピース》の上に、信一郎から預かつた時以来忘れられてゐたのである。
 夫人から、そんなにまで手軽く扱はれてゐる品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になつてゐることが、信一郎には一寸気恥しいことのやうに思はれた。
 が、夫人のあゝした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢である、口先でこそあんなことを云ひながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残つてゐる以上、心の中では可なり良心の苛責を受けてゐるのに違《ちがひ》ない。信一郎は、やつとさう思ひ返した。

 小間使は、探すのに手間が取れたと見え、暫らくしてから帰つて来た。そのふつくらとした小さい手の裡には、信一郎には忘れられない時計が、薄気味のわるい光を放つてゐた。
 夫人は小間使から、無造作にそれを受取ると、信一郎の卓の上に軽く置きながら、
「さあ! どうぞ。よく検《あら》ためてお受取り下さいませ! お預りしたときと、寸分違つてゐない筈ですから。」
 夫人は、毒を喰《くら》はゞ皿までと云つたやうに、飽くまでも皮肉であり冷淡であつた。

        八

 信一郎は、差し出されたその時計を見たときに、その時計の胴にうすく残つてゐる血痕を見たときに、弄ばれて非業の死方をした青年に対する義憤の情が、旺然として胸に湧いた。それと同時に、青年を弄んで、間接に彼を殺しながら而も平然として彼の死を冷視してゐる――神聖な遺品《かたみ》の時計をさへ、蔑み切つてゐる夫人に対して、燃ゆるやうな憎しみを、感ぜずにはゐられなかつた。
 信一郎は、かすかに顫へる手で、その時計を拾ひ上げながら、夫人の面《おもて》を真向から見詰めた。
「いや、確《たしか》にお受取りしました。お預けした品物に相違ありません。」
 彼の言葉も、いつの間にか、敵意のある切口上に変つてゐた。
「ところが、奥さん!」信一郎は、満身の勇気を振ひながら云つた。
「一旦お返し下さつた此時計を――改めて、さうです、青木君の意志として――私は、改めて貴女に受取つていたゞきたいのです。」
 さう云つて、信一郎は、夫人の顔をぢつと見た。どんなに厚顔な夫人でも、少しは狼狽するだらうと予期しながら。が、夫人の顔は、やゝ殺気を帯びてゐるものゝ、その整つた顔の筋肉一つさへ動かさなかつた。
「何だか手数のかゝるお話でございますのね。子供のお客様ごつこ[#「ごつこ」に傍点]ぢやありますまいし、お返ししたものを、また返していただくなんて、もう一度お預かりした丈で、懲々《こり/″\》[#ルビの「/″\」は底本では「こり/\」]いたしましたわ。」
 夫人は噛んで捨てるやうに云つた。
 信一郎は、夫人の白々しい態度に、心の底まで、憎みと憤怒とで、煮え立つてゐた。
「いや、此度はお預けするのではないのです。いや、最初から此の時計は貴女にお預けすべきでなくお返ししなければならぬ時計だつたのです。時計の元の持主として、貴女に受取つていたゞくのです。貴女は、此の品物を当然受取るべきお心覚えがあるでせう。ないとは、まさか仰しやれないでせう。」
 信一郎も、女性に対する凡ての遠慮を捨てゝゐた。二人は男女の性別を超えて、格闘者として、相対してゐた。
 信一郎に、さう云ひ切られると、夫人は暫らく黙つてゐた。白い瓢《ひさご》の種のやうな綺麗な歯で、下唇を二三度噛んだがやがて気を換へたやうに、
「それでは、貴君《あなた》は此時計の元の持主を、妾《わたくし》だと仰しやるのですか。」
「さうです。それを確信してもよい理由があるのです。」信一郎は凜としてさう云ひ放つた。
「おやさう!」夫人は事もなげに応《う》けながら、「貴君が、さうお考へになりたければ、さうお考へになつても、別に差支はございませんよ。それでは、この時計もお受取りして置かうぢやありませんか。どうせ一度は、お預かりした品物ですもの。」
 夫人の態度は、愈《いよ/\》逆になり、愈々《いよ/\》毒を含んでゐた。
「それで、御用事と仰しやるのはこれ丈《だけ》!」
 夫人は信一郎と一刻でも長く同席することが不快で堪らないやうに急き立てるやうに附け加へた。
 信一郎は、夫人の自分に対する烈しい憎悪に傷きながら、しかも勇敢に彼の陣地を支へた。
「いや、大変お手間を取らして相済みません。が、もう一言、さうです、青木君の言伝があるのです。時計の元の持主にかう伝へて呉れと頼まれたのです。」
 信一郎は、さう云つて言葉を切つた。
 夫人は遉《さすが》に、緊張した。やさしく烟つてゐる眉を、一寸|顰《しか》めながら、信一郎が何を云ひ出すかを待つてゐるやうだつた。


 彼女の云分

        一

 遺言と云つても、信一郎は青木淳の口づから受けてゐるのではない。が、彼は青木淳の死前の恨《うらみ》の籠つたノートを受け継いでゐる。
『彼女の僅かに残つてゐる良心を恥かしめてやる』べき、以心伝心の遺託を、受けてゐるのだつた。
「いや、遺言と云つても、外ではありません。この時計を返すときに元の持主にかう云つて呉れと頼まれたのです。青木君が瀕死の重傷に苦しみながら、途切れ/\に云つたことですから、ハツキリとは分りませんが、何でもかう云ふ意味だつたと思ふのです。純真な男性の感情を弄ぶことがどんなに危険であるかを伝へて呉れ。弄ぶ女に取つては、それは一時の戯れであるかも知れぬが
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